梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・25

《第三章 譬喩品》
【解説】・6・《「法華経の智慧」(池田大作・聖教新聞社・2011年)より抜粋引用)》《法華経の譬喩の特色》
須田晴夫:これほど人の心を引きつける法華経の譬喩の力は、いったいどこから来るのでしょうか。とくに、「すべての衆生を仏に」と主張する開三顕一については、二十八品のうち八品も費やして展開されています。その中に、法華経の七大譬喩のうちの五つがある。(略)そこに釈尊の並々ならぬ思いの深さを感じるのですが。
池田大作:そこなのです。法華経の「譬喩の豊かさ」の根源は。譬喩とは何か。天台はこう解釈している。「仏の大悲はやむことなく、巧みなる智慧は無辺に働く。ゆえに仏は譬喩を説き、樹木を動かして風を教え、扇をかかげて月を分からせる。このようにして、真理を悟らせるのである」(『法華文句』、趣意)大聖人は、この釈を引かれ「大悲とは母の子を思う慈悲の如し」(御書)と仰せです。巧みなる比喩を生む源泉は「慈悲」なのです。しかも続いて、「彼の為に悪を除く」のが「彼の親」である、との言葉をあげられている。たとえ、子に憎まれようとも、子の心に巣くう悪を取り除こうと戦う「厳愛」である、と。(略)
池田:七大譬喩はすべて、衆生に対する仏の慈悲を明かしているのです。なかでも代表的な三車火宅、長者窮子、良医病子の三つの譬えでは、仏は“子を救う父”として描かれています。また、種々の草木を平等にうるおす慈雨や大雲として(三木二草の譬え)、旅人を導くリーダーとして(化城宝処の譬え)、友人を守る保護者として(衣裏珠の譬え)、臣下をたたえる王として(髻中明珠の譬え)も描かれている。法華経の譬喩は、衆生の機根に応じて説かれた随他意の言葉ではない。「仏の心」を明かし、人々を「仏の心」へと引き入れる「随自意の譬喩」なのです。大聖人は「法華経は随自意なり一切衆生を仏の心に随へたり」(御書)と仰せです。衆生の心が「仏の心」と一体になるために説かれたのが、法華経の譬喩です。
斉藤克司:法華経の譬喩は、衆生を仏の境涯に高める力をもっているのですね。
池田:そうです。譬喩には“能動的に考えさせる”力がある。牧口先生も同じ発想の教育方法を考案されていた。(略)わかりやすい譬喩を使って教えるということは、自分で考えさせることに通じる。だからこそ、教えられた人の側に変革が起こる。それに関連することですが、法華経の七譬を「生命の病を治す薬」ととらえた人もいます。四、五世紀ごろインドで活躍した天親(世親)です。たとえば、「三車火宅の譬え」は「顚倒して諸の功徳を求める増上慢心」という病を治す薬です。顚倒とは、三界の火宅の中で幸せを求めようとすることです。(略)七喩は、生命の病を治す「良薬」とされている。とすると、釈尊は、衆生の生命を癒やし、蘇生させる「名医」と言えます。「名医」そして「厳父」。そこに一貫して輝いているのは、衆生を幸福にせずにおくものかという、燃えるがごとき「慈悲」です。
斉藤:仏が衆生に対して「名医」と「良医」の両方の役割をもっていることを示しているのが、七喩の第七、寿量品の良医病子の譬喩ですね。
池田:寿量品の仏は、過去遠遠劫より未来永劫にわたって衆生救済の活動を続ける仏です。永遠の寿命を持ちながら、“衆生の救済のために出現し、救済のために入滅していく”仏です。出現も入滅も衆生救済のためです。つまり、“慈悲の生命”そのものを表している仏なのです。
遠藤孝紀:七喩の最初の「三車火宅の譬え」では、仏は「父」として示されました。「今此三界」の文には、父である仏が、子である衆生をどこまでも救う慈悲が示されています。この「父である仏」が、寿量品では、永遠の慈悲の活動である久遠の仏としてしめされたわけですね。
池田:そう。「百六箇抄」には「今此三界」の文について、「密表寿量品」(御書)・・密かに寿量品を表す・・と言われています。


【感想】
・ここでは、法華経の譬喩の特色が説明されている。人々は、直接の教えを聞くよりも、「たとえ話」を通して、考えながら聞く方が、その本質を理解することに近づく、ということだろう。「譬喩には能動的に考えさせる」力があるからである。ただ聞いて「受け身的」に考えてもわからないが、そのたとえが何を表しているかを「自分で考える」ことが大切だということである。では「三車火宅の譬え」を聞いて、私自身は何を考えたか。①父は家が燃えているのに気づいたが、子どもたちは気づかずに遊び呆けていた。それは、何も考えずに、欲望に任せて、享楽を求めていたからである。②初めは、父の呼びかけが聞こえなかったが、「好きなオモチャをあげるよ」という言葉は「聞きとめて」すぐに家を出た。それは「オモチャを欲しい」という欲があったからである。つまり、父は子どもたちが「欲に駆られて」行動することを知っていた。そのことが「仏の智慧」ということなのだろうか。だとすれば、まず相手を「よく観ること」(的外れな見方をしないこと)が必要であり、《独断と偏見》に陥らないことが大切だ。見間違い、誤解、拙速、欺瞞、虚偽・・・、などなどは「人間の知恵」に付き物である。③父には「なんとしても子どもたち《全員》を救出したいという慈悲(愛)があった。
 釈迦牟尼仏であれ、イエス・キリストであれ、共通している点は「やさしさ」であり「温もり」であり、とりわけ「弱さ」なのだと、私は思う。ややもすれば、男には「強さ」「たくましさ」「かっこよさ」が求められるが、それらは聖者とは無縁のことがらである。
 以上が、「三車火宅の譬え」から学んだことである。
(2019.9.10)