梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・24

《第三章 譬喩品》
【解説】・5・《「法華経の智慧」(池田大作・聖教新聞社・2011年)より抜粋引用)》
《三車火宅の譬え》
遠藤孝紀:譬喩品は、舎利弗の深い歓喜の言葉から始まります。方便品の開三顕一の説法を聞いて領解した歓喜です。舎利弗は、その喜びを全身で表現しています。(略)舎利弗は、躍り上がって喜び、起って合掌したのです。(略)
斉藤克司:しかし、他の弟子たちは、まだ分かっていません。そこで舎利弗は、他の弟子たちのために、「未だかつて聞いたことのない法」のいわれを説いてください、と釈尊にお願いします。それに応えて説かれたのが「三車火宅の譬え」です。
遠藤:法華経の七喩の最初です。この譬喩品の「三車火宅の譬え」に続いて、信解品(第四章)では「長者窮子の譬え」が説かれ、薬草喩品(第五章)で「三草二木の譬え」、化城喩品(第七章)で「化城宝処の譬え」、五百弟子受記品(第八章)で「衣裏珠の譬え」、安楽行品(第十四章)で「髻中明珠の譬え」、如来寿量品(第十六章)で「良医病子の譬え」が次々と説かれていきます。
池田大作:譬喩品のみならず、法華経全体からいっても、譬喩は重要な意味をもっている。方便品に「諸法寂滅の相は、言を以て宣ぶ可からず」とあるように、仏の悟った甚深の法は、もとより言葉によっては表現しがたいものです。かといって、仏の悟りの法が仏の胸中にのみとどまっていれば、衆生の成仏の道を閉ざすことになってしまう。仏が譬喩を駆使して語るのは、まさに衆生の心に仏道を開示せんがためです。
須田晴夫:それでは「三車火宅の譬喩」のあらましを紹介したいと思います。(略)「三界は安きことなし、猶お火宅の如し」とあるように、焼けている家は、煩悩の炎に包まれた現実の世界(三界)を譬えています。その描写がすごい。」
(略)
池田:優れた映画の見事なカメラワークを見ているようだね。「人生は火宅の如し」。一日一日を、何も考えず享楽的に生きる人生の危険を、強烈なイメージで焼きつけることに成功している。法華経は、人生の苦しみを非常にリアルにとらえている経典です。(略)斉藤:現実を幻ととらえる傾向の強い他の大乗経典と大きく異なるところです。諸法即実相、現実即真理ととらえる法華経らしい特徴だと思います。
池田:それもあるだろう。しかし、その心は「慈悲」です。衆生を何とか救おうという「救済の心であり、衆生の苦悩に対する「同苦の心」です。
遠藤:「三車火宅の譬え」の後半は、その救済の物語です。
(略)
須田:子どもたちが、早く約束の車をくださいと父に言ったら、長者は、羊の車、鹿の車、牛の車ではなく、「等一の大車」を与えた。それが「大白牛車」です。(略)
遠藤:(略)羊車、鹿車、牛車で子どもたちの気を引きつけたのは、仏が衆生を救うために、衆生の機根に合わせて、三乗(声聞・縁覚・菩薩のための教え)を説くことです。大白牛車を与えたのは、仏の真意は三乗ではなく一仏乗であることを明かすこと、すなわち「開三顕一」です。
池田:一仏乗を表す「大白牛車」も、実に壮麗に描かれているね。これ自体、何とかして仏の境涯を伝えようとする譬喩になっている。
(略)
池田:(略)三車をあたえるという方便で火宅から救ったのは“抜苦”です。大白牛車を与えたのは“与楽”です。仏の智慧という最高の安楽の境涯を与えたのです。
(略)
池田:大白牛車とは、法華経そのものです。その実体は、仏の妙なる生命です。南無妙法蓮華経の大生命そのものです。(略)
遠藤:この「大白牛車」の荘厳な様子は、火宅の姿と対極をなしている、とも言えますね。
池田:その通りです。愚痴と無明に覆われた衆生は、自らの住む家が火宅となって燃えさかっていることに気づかないばかりか、自身の命に仏の生命が具わることにも、まったく気づいていない。その「燦爛と輝く生命」を譬えによって教えているのです。


【感想】
・釈迦牟尼仏が法華経の方便品(開三顕一)を説いたところ、智慧第一と讃えられる舎利弗はすぐに理解したが、他の弟子は理解できなかった。そこで、釈迦牟尼仏は「たとえ話」を使って理解させようとした。その最初の話が「三車火宅喩」である。三車とはオモチャの羊車、鹿車、牛車であり、火宅とは火事で燃えている古びた家のことである。人々は「ものごとを深く考えずに」欲望に任せて享楽を求め、そのことが苦を生み出しているが、そのことに気がつかない。心は慢心・おごりが満ちあふれ、争いが絶えない。釈迦牟尼仏はそんな人々を救おうとして、「妙法蓮華経」を説いた。救う方法(方便)としては「子どもに欲しいオモチャをあげるよ」と言って、燃えている家から誘い出し(脱出させ)、全員を救出すると、三種のオモチャではなく、最高級の「大白牛車」を与えた、という話である。その「たとえ話」で、たの弟子たちが「法華経」を理解できたかどうか、それは分からない。つまり、理解するかしないかは「他人事」ではなく、自分の問題だからである。「三車火宅喩」をそのまま理解すれば、長者と子どもたちの「救出劇」だが、その物語から「何を学ぶか」ということが、私たちひとりひとりに問われているのだ。私自身は、釈迦牟尼仏が、他の経典よりも「法華経」を重視し、苦しみから脱するためには、法華経を学ぶことが究極だ(大切だ)と説いていることまでは分かったが、「では法華経はどんなことを説いているか」までを具体的に理解することはできなかった。特に、池田大作氏のいう「自身の命に仏の生命が具わること」「燦爛と輝く生命」の意味が《抽象的》でわからない。先を読めば分かるかもしれない。
(2019.9.8)