梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・23

《第三章 譬喩品》

【要点】
・仏は再び重ねて、この意義を宣べようと欲して、詩を説いていわれた。
「(略*三者火宅喩の詳細)なんじ、舎利弗よ、わたくしは生あるもののために、以上のたとえをもって、一仏乗(唯一の仏の乗りもの)を説く。『なんじたちが、もしもよくこのことばを信じて受け入れるならば、そのものたちはことごとくみな、必ず仏道を成就することができるであろう。(略)以上のいわれから、十方に明らかに求めても(以上のべた一仏乗の)ほかにさらに他の乗(乗りもの」はないのである。ただし仏の教化の方法は例外である。』と。
 舎利弗に告げる。『なんじたち、多くのひとびとは、みなこれわが子である。わたくしはすなわちこれ父である。なんじたちは長い年月を重ねて、多くの苦に焼かれているところから、わたくしは、なんじたちみなを救い出して、この世界を超越させたのである。(略)いまなんじたちのなすべきところは、ただ仏の智慧だけである。(略)もしもだれかが、智慧が少なくて、深く愛欲に執着しているならば、このひとびとのためのゆえに、仏は苦に関する真理を説かれる。(略)すなわち、多くの苦の原因になるところは、貪欲がその根本にあるのである、と。もしも貪欲をほろぼすなら、執着するよりどころがないであろう。多くの苦を滅し尽くしたのを、第三の真理、すなわち滅諦と名づける。その滅諦のためゆえに、(八正)道を修行するのである。多くの苦の縛を離れるのを、解脱を得たと名づける。(略)なんじ、舎利弗よ、(略)ただ遊びたわむれるところのあちこちで、みだりにこの法を、宣伝することがないようにせよ。その反対に、もしもまじめに聞くものがあって、この法にしたがって喜び、かしこまって受けいれるならば、必ず知らねばならない、この人は、もはや凡夫にはもどらないボサツである、と。(略)この『妙法蓮華経』は、智慧の深いもののために説く。知識の浅いものは、これを聞いても、迷い惑って理解しないからである。(略)また舎利弗よ、おごり慢心をもち、怠りなまけるもので、自我にとらわれた見解をあれこれうる立てるものには、この経を説くことがないようにせよ。凡夫の浅はかな知識は、深く五官の欲望に執着しているところから、たとえ聞いても理解できないので、そのものたちのために説くことがないようにせよ。もしもひとが信じないで、この経の悪口をいってそしるときは、すべて世界の仏となる種子(=仏性)を断たれてしまうだろう。(略)そのようなひとは、命が終われば、阿鼻地獄に入るであろう。(略)たとえ地獄から出られても、必ず畜生道に堕ちるにちがいない。(略)生きているときは苦痛を受け、死ねば見捨てられて瓦や石を投げられるだろう。(以下・畜生道に堕ちた後の有様が列挙される)この経をそしるがゆえに、罪を得ることが、以上のとおりである。』
舎利弗に告げる。『(この経をそしるものは、限りない罪を受ける。)このようないわれがあるので、無智のひとびとのなかで、この経を説くことがないように。(一方、素質が鋭利で、智慧が明らかであり、多くを進んで聞き、記憶力・ものおぼえよく、仏道を求めるひとのためにこの経を説くべきある。)かつて億千万の仏を見たてまつり、多くの善の根本を植え、深い信心が堅固であるならば、このようなひとのためにこの経を説くべきである。(以下・精進努力して他人を慈しむ心を修め、そのために自分の身体も命も惜しまないひと、多くの凡夫や愚かなものから離れて、ひとり山や沢にいるひと、悪友たちを捨て善い友人に親しみ近づくひと、仏の子で戒を保つことが清潔であり大乗経典を求めているひと、性格がまっすぐで柔軟性があり、すべてのものをあわれみ、仏を恭敬するひと、大乗経典だけを受持して、それ以外の経からはただひとつの詩も受けないひと、仏の遺骨を求めるように経を求め、仏教以外の典籍を見たいと思わないひと、にはこの経を説くべきである、として列挙されている)舎利弗に告げる。『わたくしは、このようなありかたをもって、仏道を求めるものを説明して、その説明は尽きることがないであろう。このように説明されたひとびとは、よく理解しつつ信ずるがゆえに、なんじは、まさにこのようなひとのために『南無妙法蓮華経』をとくべきである』と。」


【感想】
・以上で「譬喩品」は終わるが、ここでは、釈迦牟尼仏が舎利仏に向かって、①みなの多くは「わが子」であり、私は「父」である、父として子どもを救いたい、②苦の原因は貪欲である。だからその貪欲を滅ぼせば苦の縛から離れられる。そのために八正道を修行する。③『南無妙法蓮華経』は、相手を見て説かなければならない、と説明している。
・私自身は「仏の智慧」とはどのようなものかを知りたくて「法華経」を読んでいるので、「多くの善の根本」を植えたり、「深い信心が堅固」であることとは無縁だ。むしろ「この経の悪口をいってそしる」立場に他ならない。だから、「命が終われば、阿鼻地獄に堕ちる」ことは必定であろう。その後の畜生道の様子も、具体的で鮮やかに列挙されていたが、無信心という罪の重さをひしひしと感じ、その内容をここに記すことはできなかった。・それゆえ、私はまだ『法華経』を読む段階には至っていないことを確信したが、《八正道》を修行して、苦の縛から離れることが肝要である、ということは分かった。では、八正道とは何か、について考えることにする。 
・その前に「法華経の智慧」(池田大作・聖教新聞社・2011年)では「第三章 譬喩品」についてどのように解説されているかを見てみたい。
(2019.9.7)