梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・22

《第三章 譬喩品》

【要点】
・如来は、この教化の方法をもって、生あるものたちを誘い導いて行って、またつぎのようにいわれた。
「(略)舎利弗よ、もしも生あるものが、内に智慧の素質があり、仏・世尊から法を聞いて、それを信じて受けいれ、ていねいに努力を重ねつつ、速やかにこの世界から脱出して、みずからニルヴァーナの途を求めるならば、これを声聞の乗りものと名づける。(前のたとえでいえば)あの多くの子どもたちのなかで、羊の車を欲しがって、燃えている家を出た子どもがそれに相当する。また、仏・世尊から法を聞いて、それを信じて受けいれ、ていねいに努力し、自然にそなわっている法を知る智慧を求め、ひとりで寂静のよい境地にいることを楽しみとし、深く諸法の(十二)因縁を知るならば、このものを辟支仏の乗りものと名づける。(前のたとえでいえば)鹿の車を欲しがった子どもがそれに相当する。仏・世尊から法を聞いて、これを信じて受けいれ、ていねいに努力し、一切を知る智慧、仏の智慧、自然にすべてのものの済度にむかう智慧、師なくひとりでさとる智慧と、如来の智慧の見解と(神通)力とおそれることのないことを求め、大勢の生あるものたちをあわれみ、こころにかけ、安楽にし、天・ひとびとに利益をあたえ、一切のものを済度し解脱させるならば、これを大乗と名づけ、ボサツはこの乗りものを求めるがゆえに、大士(マカサツ)と名づけるのである。(前のたとえでいえば)牛の車を欲しがった子どもに相当する」
(略)
・この多くの生あるものたちで、世界から脱出できたものには、ことごとく、多くの仏の禅定・解脱などの娯楽の道具をあたえる。(これらの娯楽の道具として、いちおう三乗に分かれてはいるけれども)その三乗はみな同一のありかた、同一の種類のものであって(差別はなく)、いずれも聖者にほめたたえられ、清浄ですぐれていることが第一の楽を生ずることができるのである。
・舎利弗よ、かの長者は、はじめは三つの車をもって、子どもたちを誘って引き出し、のちに、ただ大きな車で、多くの宝物で立派に飾り立てた、しかも安穏第一であるもの(=一乗)をあたえたのである。かの長者に虚妄(いつわり)の咎はないように、如来もまた(三乗によって一乗をあたえたことは)虚妄は存在しないのである。
・(略)如来には、量り知れない智慧・(神通)力・おそれるところのないことの多くの藏があって、すべての生あるものに(直ちに)大きな乗りもの(=大乗)の法をあたえようとすれば、あたえることはできるのであるけれども、ただし(生あるものの方にそれぞれの事情があって)すべて受けいれることができないことがあるからである。
・舎利弗よ、以上のいわれをもって、まさに次のことを知るべきである。多くの仏は、教化の方法の力のゆえに、本来は一仏乗であるものを、区別して三(乗)と説かれたのである。


【感想】
・釈迦牟尼仏の「三車火宅喩」についての(舎利弗に向けての)解説が続く。父が子どもたちに「家が火事だから外に逃げなさい」と言っても、子どもたちはその危険を認識していないので、通じない。だから、「(家を出たら)お前たちの欲しいおもちゃをあげるよ。羊の車、鹿の車、牛の車の中から欲しいものを選びなさい」というと、初めて、子どもたちをは父の呼びかけに気づき、自分たちから家を出ることができ、全員が助かった。その「欲しいものをあげるよ」という一言が、「教化の方法を講じた」ということだろう。
・釈迦牟尼仏は弟子の舎利弗に、いわば仏道の「究め方」ではなく「教授法」を解説しているということだろうか。仏教は当初「出家しなければ究められない」とされていた。その時代の教えが「小乗経典」であり、今でも「上座仏教」として継続している。世の中は生々流転、生きとし生けるものは「生まれ変わり、死に変わり」輪廻のサイクルを繰り返すとされていた時代のなかで、そこから抜け出て安穏な世界に永遠にとどまるには「解脱」しかない、そのためには出家して修行しなければならなかった。しかし、時代がすすむにつれ、「出家しなくても」あるいは「誰でも」解脱して成仏できるという、大乗仏教の考え方が生まれ、それが日本に伝来したらしい。
・「法華経」は“大乗仏教の王者”ともいわれ、大乗経典のすべてが集約されているということだが、ここでは小乗仏教の考え方を「全面否定していない」ことが興味深かった。特に、仏法の教示は「相手の実態」に応じて方法を工夫しなければならない、しかし、その本質は同一で変わらない、ということが強調されている。その「相手に応じる」ということこそが、仏の智慧ということなのだろうか。
(2019.9.6)