梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・21

《第三章 譬喩品》

【要点】
・多くの生あるものたちを見ると、生・老・病・死・憂い・悲しみ・苦しみ・悩みのために焼いたり煮たりされており、また五種の感覚から生ずる欲望や財産の利益を追究するためのゆえに、種々様々の苦を受けている。また貪って執着し、追求してほしがることのためのゆえに、現実世界では多くの苦を受け、死後の世界には地獄・畜生・餓鬼の世界に堕ちてその苦を受ける。もしも天上に生まれ、また人間世界に生まれえても、貧乏して窮迫して困る苦、愛するものと別れ離れなければならない苦、怨み憎んでいるものと会わなければならない苦、このような種々の多くの苦がある。それなのに、生あるものたちは、そのなかに、埋もれていて、(はかない・危険なもの)に歓喜し、遊びたわむれていて、自覚せず、知らず、驚かず、怖れず、またそれらの苦をい厭うことを生じないし、解脱を求めない。ちょうど全世界のなかの燃えている家のなかで、東西に走りまわっていて、やがて大きな苦にも会うことが判りきっているのに、それを心配しようとしないでいるごとくである。
・舎利弗よ。仏はこの全体を見おわって、つぎのように考えた。
『わたくしは生あるものたちの父であるからには、いままさにその苦難を抜いてやり、量り知れず、限界のない仏の智慧の楽しみをあたえて、それをこそ、遊びたわむれるようにしてやろう』と。
・舎利弗よ、如来はまたつぎのように考えた。
『もしもわたくしがただ仏の神通力と智慧の力だけをもちいて、教化の方法ということを捨てて、多くの生あるものたちのために、如来の智慧の見解と力とおそれのないことをほめたたえたならば、生あるものたちは、これによっては済度することはできないであろう。理由はなぜかといえば、この多くの生あるものたちは、未だに生・老・病・死・憂い・悲しみ・苦しみ・悩みから免れずにおり、全世界のなかで燃えている家のなかにとどまっていて焼かれてしまうであろうからである。(教化の方法がないとすれば)なにによって、仏の智慧をさとることができるであろうか』と。
・舎利弗よ、かの長者は、また身体にも手にも力があったけれども、しかもそれを用いなかった。ただ手段を充分につくした教化の方法をもって、努力して多くの子どもたちが燃えている家のなかにいて出あう災難から、これを救い出し、そしてあとになって、各々に珍しい宝で飾った大きな車をあたえた。それと同じように、如来もまたそのとおりにするのである。すなわち(神通)力・おそれることのないことが如来にそなわっているけれども、しかもそれをもちいないで、ただ智慧と教化の方法だけをもって、全世界のなかで燃えている家のなかに生あるものたちを引き出し、救い出そうとしているのである。そして(それぞれにふさわしいように)声聞(仏の教えを説くのを聞いてさとるもの)と辟支仏(ひとりでさとりに達するもの)と仏とのそれぞれの乗りものについて説明して、つぎのようにいう。
『なんじたちはあそび楽しんで、全世界のなかでこの燃えている家のなかにとどまっていることがないようにせよ。粗末で古びた色・声・香・味・蝕を貪ることがないようにせよ。もしも貪り執着して、愛著の欲望を生じるならば、そのまま焼かれてしまうであろう。なんじらは、速やかにこの世界から脱出して、三つの乗りものである声聞の乗りもの、辟支仏の乗りもの、仏の乗りものを得なければならない。わたくしはいま、なんじらに以上のことを責任をもって保護し、あとになって虚しかったということがないようにさせよう。なんじたちよ、ただそれを勤め修行し努力せよ』と。」


【感想】
 ここでは、釈迦牟尼仏が舎利弗に向かって「三車火宅喩」の《解説》をしているように感じた。長者とは仏のことであり、子どもたちとは「生あるものたち(すべて)」のことである。そこで強調されていることは、「教化の方法」である。仏の智慧を「開示悟入」するためには、相手の状態に応じて、そのやりかたを変えなければならない、ということであろうか。
 釈迦牟尼仏がみた「生あるものたち」の実態は、(四苦八苦の)煩悩の火に焼かれ、欲望、利益などの貪りに執着し、はかないもの、虚しいものに歓喜して、みな子どものように遊び戯れている。そのことを「自覚せず、知らず、驚かず、怖れず、またそれらの苦をい厭うことを生じないし、解脱を求めない。ちょうど全世界のなかの燃えている家のなかで、東西に走りまわっていて、やがて大きな苦にも会うことが判りきっているのに、それを心配しようとしないでいるごとくである」と釈迦牟尼仏は表現している。
 今から二千年も前に編まれたものだが、その実態は《現代》と何ら変わらない、と私は思った。「なんじたちよ、ただそれを勤め修行し努力せよ」と仏は《今でも》呼びかけているのだろう。では、どのようなことを勤め、どんな修行をし、どのように努力すればよいのか。結論は「煩悩の火を消し、欲望の執着から解脱すること」に違いないと思われるが、仏はその方法を教えてくれるのだろうか。それとも「自分で考えなさい」ということだろうか。読み進めればわかるかもしれない。(創価学会では、まず①毎日、勤行に励むこと、②座談会に参加すること、③「聖教新聞」を購読すること、を勧めていることは知っている)(2019.9.5)