梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・20

《第三章 譬喩品》


【要点】
・ここで、長者は、子どもたちを安穏に外に出すことができて、みな四辻の道のなかの露地に坐って、みな障害のなかったのを見て、その心がやすらかになって、歓喜し、心がおどった。そこで子どもたちは、それぞれ父に申し出た。
『お父さん、さきほど約束した玩具である羊車と鹿車と牛車とを、どうか願わくはいまあたえてください』
・「舎利弗よ、そのとき長者は各々の子どもたちに第一級の大きな車を与える。(略)その車を引っぱるのは牛である。(略)
・ここで、子どもたちは各々その大きな車に乗ってみて、未だかつてないことを経験することができたが、それはもともと望んだところとはちがっていて、不思議な感じがする。舎利弗よ、なんじの心はどのように考えるか。この長者は、等しく子どもたちに珍しい宝の車をあたえたが、これは虚妄(いつわり)ではなかっただろうか。どうだろうか。」
・舎利弗はいった。
「そうではありません。世尊よ。この長者は多くの子どもたちをして、火事の難を免れ、その身体と命とを全うすることを可能ならしめただけであって、虚妄とされるものではありません。なぜかといいますと、もしも身体と命を全うするならば、そのときはすでにもてあそぶ玩具は得られたとすることができるからであります。ましてこの場合には、教化の方法が講じられて、あの燃えている家から子どもたちを救い出したのですから、なおさらのことであります。世尊よ、もしこの長者が、たとえ最小の車ひとつさえあたえなかったとしても、それでもなお虚妄ではありません。なぜかといいますと、この長者はそれよりも先に、つぎのように考えたからであります。『わたくしは教化の方法を講じて、子どもたちを(燃えている家から外へ)出ることを可能にしよう』と。このいわれからしても虚妄ではないのです。ましてや、この長者は自分が財産や富が無量であることを知っていたので、多くの子どもたちに利益をあたえて喜ばせてやろうと欲して、等しく大きな車をあたえたのですから、どうして虚妄などということがありましょうか。」
・仏は舎利弗に告げたもうた。
「よろしい、よろしい、なんじのいうところのとおりである。舎利弗よ、如来もまたそれと同様である。すなわち一切の世界の父となり、多くのおそれ・悩み・憂い・無知・暗さを、すでにとおい時代に絶滅して、なんらのこりはなくなっており、ことごとく量りしれないほどの智慧の見解・力・おそれのないことを成就して、偉大な神通力と智慧力とを有し、教化の方法と智慧パラミーターとを満たしそなえ、大慈大悲があって、つねにあきてなまけることがなく、いつでも永遠に善いことを求めて、すべてのものに利益をあたえているのである。そしてここで全世界のなかで、朽ちてふるびた焼けている家に、その身体を生じてみせたのは、生あるもののもっている生(生まれる)・老・病・死・憂い・悲しみ・苦しみ・悩み・おろかさ・暗さと、貪りといかりと愚かさとの三つの煩悩の火から、生あるものたちを済度し、教化して、最高の完全なさとりを獲得させようとしたためである。」


【感想】
・釈迦牟尼仏のたとえ話《三者火宅喩》の中で、長者は子どもたちに「家を出れば、それぞれ各自が欲しい羊の車、鹿の車、牛の車のどれかをあげよう」と言ったのに、全員に最上級の大白牛車を与えた。子どもたちは自分の欲しいものではなく、牛の車だけを与えられたことになるが、では長者は嘘をついたのか、どう考えればよいか、釈迦牟尼仏は舎利弗に尋ねた。舎利弗は「嘘ではありません。なぜなら、その言葉で子どもたちは命を助けられたのだから、そして長者は子どもたちの命を助けたかったのだから、もし何も与えなかったとしても、嘘をついたことにはなりません。」と答えると、釈迦牟尼仏は「よろしい、そのとおりである」と評し、さらに「如来もまたそれと同様である」と説いた。
 如来もまた、一切の世界の父となり、すべての者に利益を与えている、「朽ちてふるびた焼けている家に、その身体を生じてみせたのは、生あるものたちを煩悩の火から救い出し、最高の完全なさとりを獲得させようとしたためである」と、仏がこの世に出現した理由を述べる。以後は、その《完全なさとり》とはどのようなものか、について説かれるかもしれない。期待を込めて読み進めることにする。
(2019.9.3)