梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・19

《第三章 譬喩品》

【要点】
・そのとき、四部の衆であるビク・ビクニ・在家の男性信者・在家の女性信者と、(仏を守る八部衆である)天と竜と夜叉とケンダッパと阿修羅とカルラとキンナラとマゴラカなどの大勢は、舎利弗が、仏前において、最高の完全なさとりを得るであろうという予言を受けるのを見て、心が大いに歓喜し、量りしれないほどおどりあがって喜んだ。(略)多くの天は、多数の伎楽を、虚空のなかで、一時にともに演奏し、多くの天の花の雨を降らせて、つぎのようにいった。
「仏はむかし波羅奈(の鹿の園)において、最初に輪のような法をころがして説き、いまはすなわちまた、無上最大の輪のような法をころがして説かれた」と。
・そのとき、多くの天子は、再び重ねてその意義を宣べようと欲して、つぎの詩を説かれた。「仏はむかし波羅奈において、四諦の法輪を転じて説法され、種々に区分して諸法の五つの集まりの生滅を説かれました。いまはまた最もすぐれた最高の大法輪を転じられました。この法はまことに奥深くて、よく信じることのできるものはまれであります。(略)偉大な智慧のある舎利弗は、いま、世尊から、未来に仏に成るという予言を受けることができました。わたくしたちもまた、(略)仏となって、すべての世界において、最も尊く最上のものとなることができますように。仏道はふつうのひとが考えることもむずかしいものでありますから、仏は種々さまざまな教化の方法を講じて、それにふさわしいように、説法なさいました。わたくしたちが今もっている(略)福のはたらき(略)、功徳とを、ことごとく仏道にさし向けて、仏道をめざしましょう。」
・そのとき、舎利弗は仏につぎのように申しあげた。
「世尊よ、わたくしはいま(略)最高の完全なさとりを得るという予言を承ることができここにいる多くの千二百人の心の自在になり(もはや学修の必要のない)聖者たちは、むかし学修しなければならない段階にとどまっていたときに、仏はつねにそのものたちを教化してつぎのようにいわれました。『わたくしの説く法は、よく生・老・病・死はら離れさせて、安らかなニルヴァーナに究極にいたる』と。この学修すべきひと、学修の完了したひともまた、各々みずから、自我に執着する見解とおよび有無に執着する見解などを離れているところから、ニルヴァーナを得たと思いこんでいます。ところがいま、世尊の前において、いままでに聞いたことのないところを、今回あらたに伺って、みな疑い惑いにおちこみました。よいことであります。世尊よ、どうか願わくは、四衆のために、そのいわれをお説きくださって、疑い悔いを離れさせることができますように。」
・そのとき、仏は舎利弗に告げられました。
「わたくしが先に、多くの仏・世尊が種々さまざまないわれとたとえとことばとをもって、教化の方法を講じて法を説かれたのは、実はみな、最高の完全なさとりのためである、といわなかったか。(たしか、いったではないか。)この多くの説くところは、みなボサツを教化せんがためのゆえである。しかも舎利弗よ、いまこれからまたたとえをもって、さらにこのことの意義をあきらかにしよう。智慧のある多くのものたちは、たとえをもって理解することができるからである。
【*以下、釈迦牟尼仏によって《三車火宅喩》が語られる】


《三車火宅喩》(「ひろさちやの感動するお経」(ひろさちや・ユーキャン・より抜粋引用)
・あるとき、大変な資産をもった長者の家が火事になります。長者はすぐに逃げ出しましたが、子供たちは遊んでいて火事に気づかず、逃げようとしません。子供たちを救うため、長者は方便を講じ、「あなたたちが欲しがっていた羊の引く車、鹿の引く車、牛の引く車をあげるから出ておいで」と呼びかけます。すると、子供たちは家から駆け出てきて、火から逃れます。長者は、出てきた子供たち全員に大きな白い牛が引く車(大白牛車)を与えました。


【感想】
・ここでは、舎利弗が釈迦牟尼仏から「未来に仏に成る」と予言された様子を見ていた千二百人の四衆やその他・大勢の人々が大喜びをする様子が描かれている。彼らもまた、仏に成れることを確信したからであろう。ここで強調されていることは、仏道を究めるためには「出家しなければならない」というこれまでの教え(小乗仏教)を改め、仏道をめざす者は「誰でも成仏できる」という教え(大乗仏教)に転換する、ということだが、必ずしも小乗仏教を全面否定しているわけではない、まず「わかりやすい」ところから仏道に入ればよい、という柔軟さが感じられる。その「いい加減さ」「曖昧な」ところが、仏の智慧なのだろうか。
 釈迦牟尼仏は、「三車火宅喩」を語る前に「智慧のある多くのものたちは、たとえをもって理解することができる」と述べている。だとすれば、長者は仏であり、子供は衆生であり、羊や鹿の引く車は小乗仏教であり、大白牛車は大乗仏教あるいは「法華経」のことを指しているということを理解すること(想像力を働かせること)が、仏の智慧ということになるのだろうか。
 続きを読み進めることで、確かめたい。
(2019.9.2)