梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・15

《第二章 方便品》

【要点】
・ところが、舎利弗よ、まさに知らねばならぬ。わたくしは、仏の子たちを見ると、仏道を志して求めるものは千万億と量りしれないほどおり、かれらはことごとく、恭しい尊敬の心をもって、みな仏のところにやってきて、これまでに多くの仏から、教化の方法として説かれた法を聞いてきた。
・わたくしはそこでつぎのように考えた。『如来(=わたくし)が世界に出現した所以は、仏の智慧を説くための故である。いままさしくその時期である』と。
・舎利弗よ、まさに知らねばならぬ。素質がにぶく、智が少ないものと、もののありかたに執着して、おごり思いあがっているものとは、この法を信ずることができない。いまわたくしは喜びを畏れることなく、多くのボサツのなかで、正直に教化の方法を捨てて、ただ最高の仏道を説く。ボサツはこの法を聞いて、多くの疑いをみなすでに除き去り、千二百人の聖者たちも、ことごとくまた必ずや仏となるにちがいない。過去・未来・現在の三世にわたって現れる多くの仏が、やはり同様に説法をおこなってきたように、わたくしもまた、いままた、このように思惟分別をこえた最高の法を説こう。
(中略*このような機会は、めったにないことであって、優曇華の花のように得がたい)・なんじらよ、疑いあることなかれ。わたくしはこれ多くの法の王であって、ひろく多くのものたちに告げる。『わたくしは、ただひとつの乗りもの(一乗)の道だけをもって、多くのボサツを教化して行く。わたくしに声聞の弟子はいない』と。なんじら、舎利弗と、声聞と、およびボサツたちは、必ず知らねばならぬ。この『妙法蓮華経』は、多くの仏の秘密の要点であるということを。五種類の堕落がおこっている長い世において、ただ多くの欲望だけに喜び執着しているような、そのような種類の生あるものたちは、ついに仏道を求めることをしない。これからくる世界の悪人は、仏が一乗を説くのを聞いても、迷い惑って、それを信じて受けいれることをせず、法を破り、悪道に堕落するであろう。そうしたあとで、恥じ後悔して、清浄となり、仏道を志し求めるものがあるならば、まさにこのようなもののために、ひろく一乗の道を讃美しなければならぬ。
・舎利弗と、まさしく多くの仏の法はこのようであり、万億という教化の法をもって、ふさわしいように、その仏たちは法を説かれると、知らなければならない。それを学び習わないものは、これを理解し尽くすことはできないけれども、なんじらはすでに多くの仏や世界の指導者の、それぞれにふさわしい教化の方法を知っている。また多くの疑惑をもつことなく、心に大歓喜を生ずれば、自分自身が必ず仏となるにちがいないと知ってよろしい。


【感想】
・ここは「法華経 第二章 方便品」の末尾の段落である。そこで釈迦牟尼仏が舎利弗はじめ(その場にいる)聴衆に向かって強調していることは、①わたくしが世界に出現したのは、仏の智慧を説く(開示悟入させる)ためであり、今がその時期であること、②仏の智慧は、(人間の)思惟分別を超えた最高の法であり、このような機会はめったにないこと、③わたくしは、ただひとつの乗りもの(大乗)だけをボサツに教える、④『妙法蓮華経』は、多くの仏の秘密の要点であること、⑤私の教えを信じられず、仏道を求めようとせず、悪道に落ちたものであっても、そのことに気づき《恥じ後悔して、清浄となり、(それから)仏道を求めようとするならば》一乗の道に入ることができるということ、であろうか。
・「法華経」は今から二千年以上も前に編まれた経典といわれているが、ここで指摘されている《五種類の堕落がおこっている長い世において、ただ多くの欲望だけに喜び執着しているような、そのような種類の生あるものたちは、ついに仏道を求めることをしない。これからくる世界の悪人は、仏が一乗を説くのを聞いても、迷い惑って、それを信じて受けいれることをせず、法を破り、悪道に堕落するであろう。》という実態は、現代の人々にも十分に当てはまる。人間は未だに「悪道に堕落」しているのだ。ただ、そのことに気づき、恥じ後悔して、仏に帰依しようとするなら、すでにボサツとなったのであり、「死んで仏になる」前に、生きたままで成仏できる、ということであろうか。以上は、凡夫である私のかってな解釈に過ぎないので、再び【解説】で確かめたい。
(2019.8.28)