梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・14

《第二章 方便品》

【要点】
・未来にあらわれる多くの世尊は、その数がどれほどになるか、量ることはできないけれども、この多くの如来たちも、また教化の方法として、法を説かれるであろう。
(略)
・未来世の多くの仏は、百千億の数えきれない多数の法門を説かれるであろうが、そのめざす真実はただひとつ乗りもの(一乗)のためである。
(略)
・わたくしは智慧の力をもって、生あるものたちの性質と欲望とを知り、教化の方法を設けて、多くの法を説き、かれらがみな歓喜することを得させる。
・舎利弗よ、まさに知らねばならぬ。わたくしは仏の眼(最高の眼)をもって、ぐるりと見まわして、六道を輪廻する生あるものたちを見たところ、かれらはまずしく困窮していて、幸福な智慧はなく、生死のむずかしい道に入って、つぎつぎと続いて、苦の断えることがない。五官の欲望に執着していて、そのありさまはミョウゴ(ヤク)が自分の尻尾に執着するごとくである。そこではむさぼりと渇望をもって、自分全体をおおいつつみ、盲でくらやみとなって、なにも見えず、大いなる偉力のある仏と、および苦を断ずる法とを求めようとしない。かれらは多くのまちがった見解に深く入りこんで、苦をもって苦を捨てようと欲している。このような(迷った)生あるものたちのためのゆえに、(仏は)しかも大悲の心を起こしたのである。
・わたくしは始めて修行の道場に坐禅してすわり、樹木を観ながら、また歩きまわって、三七日すなわち二十一日のあいだ、つぎのようなことを考えた。
『わたくしが得たところの智慧は、奥深くすぐれていて、最上第一である。それなのに、生あるものたちは多くの素質はにぶく、快楽に執着し、おろかなために盲となっている。このような種類のものたちを、どのようにして救い解脱させたらよいのか』と。
・そのとき、多くの梵天、および多くの帝釈天と世界を護る四天王と大自在天と、ならびにそのほかの多くの天たちと、その仲間の百千万とは、尊敬して恭しく合掌し礼拝して、わたくしに、輪にたとえられる教えを説くように要請した。
・わたくしはそこでみずから考えた。『もしもただ仏の乗りものを讃美したならば、(それらを知らない)生あるものたちは苦にうずもれていて、わたくしの説くこの法を信ずることはできないであろう。それとは反対に、法を破壊して、信じないために、三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に堕落するにちがいない。それならばいっそのこと、わたくしはむしろさとった法を生あるものたちに説くことはせずに、速やかにニルヴァーナに入ろう』と。
それに続いて、わたくしは過去の仏が行ったところの教化の方法のことを心に思い、『わたくしがいま獲得したところの道も、またまさに三つの乗りものに区別して説くべきであろうか』と。このように考えたときに、十方の仏はみな出現して、美しい音声をもって、わたくしをなぐさめていった、『善いかな、釈迦文よ、第一の指導者よ、この最高無上の法を得られたけれども、多くの力を用いられる。わたくしたちもまた、みな、最もすぐれた第一の法を獲得したけれども、多くの生あるものたちのために、三つの乗りものに区別して説くことにする。智の少ないものたちは小(乗)の法を喜んで、自分自身が仏と成るということは信じない。こうした理由から、区別して、三つの乗りものの(それぞれの多くの果報)を説くのである。こうして三つの乗りものを区別して説くとはいっても、究極は(仏に成ることを願っている)ボサツだけを教えんがためである』と。


・舎利弗よ、まさに知らねばならぬ。わたくしは聖なる獅子にもたとえられる仏の、深く浄らかで奥深くすぐれた音声を用いて喜んで『南無仏』(仏に帰依たてまつる)と口に出してとなえた。また、つぎのようなことを考えた。『わたくしは混濁した悪い世に生れ出た。多くの仏がこれまで説いたところのように、わたくしもまたそれにしたがって実践していこう。』と。以上のことを考えおわってから、そこでベナレスに出かけて行った。そしてそこで諸法寂滅という、すべてのものがあるがままに静寂にあるありかたは、ことばをもってしては述べることができないので、教化の方法を講じ、その力によって、五人のビクのために(最初の)説法をした。これを転法輪(輪のように法をまわす)と名づける。こうして『ニルヴァーナ』ということば、および『聖者』(アラカン)ということば、『法』と『教団』(僧)ということばが、それぞれ区別して名づけられた。『わたくしは久遠の劫という長い年数にわたって、ずっと、ニルヴァーナの法を讃美して教えを示し、生死にまつわる苦を永くおわらせるのだ』と、わたくしはつねにこのように説いている。

【感想】
・釈迦牟尼仏は、これまでに出現した仏は、みな「一つの乗りもの」を説いたが、未来の仏も同じように「一乗」を説くだろう、と予言する。そして、《いまのわたくしもこのとおりである》としたうえで、舎利弗に向かって自らが考えたことを列挙する。
・その一は、(二十一日間の修行で)「私が得た智慧はすぐれていて最上第一である。生あるものたちをどのようにして救い解脱させたらよいか」
・その二は、「もしただ仏の乗りものを讃美したならば、(それらを知らない)生あるものたちは、この法を信ずることはできないであろう。三悪道に堕落するにちがいない。さとった法を説くことはせずに、すぐにニルヴァーナに入ろう」
・その三は、「私が獲得した道も、三つの乗りものに区別して説くべきであろうか」
 このように考えたとき、十方の仏はみな出現して「善いかな、釈迦文よ、私たちも第一の法を獲得したが、生あるものたちのために三つの乗りものに区別して説くことにする。智の少ないものたちは小(乗)の法を喜んで、自分が仏となるということは信じないから、三つの乗りものを区別して説くのである」と教えてくれた。
・だから、私は(感謝して)「南無仏」と口に出してとなえた。そして「私は混濁した悪い世に生まれ出た。多くの仏がこれまで説いたように、私もまたそれに従っていこう」と考えた。


・「法華経」では、仏が何のためにこの世に出現した理由を明らかにしている。それは「仏の智慧」(仏の、ものの考え方)を「開示悟入」させるためである。しかし、そのことは容易ではないことを、釈迦牟尼仏は感じている。私は先の感想で「《また、斉藤克司氏は、「釈尊が仏法を説き始めるときの悩みです。自分が悟った法を説くべきか否か、釈尊は迷いに迷います。」と述べているが、それは「方便品」(第二章)のどこを読めばわかるのか、私がこれまで読んだところに記されていたのだろうか。(読み落としたか!)」と綴ったが、おそらくここで述べているのかもしれない。釈迦牟尼仏は、まず①説くべきか否かを迷い、次に②「一つの乗りもの」を説くべきか、それとも「三つの乗りもの」に区別して説くべきかを迷い、そして、これまで出現した多くの仏がしたように「三つの乗りもの」に区別して説くことにした、ということのようである。
 ところで、釈迦牟尼仏は、なぜこれほど「乗りもの」にこだわるのだろうか。おそらく、仏の智慧を得る(悟りを開く、解脱する)ためには「出家しなければならない」といった小乗仏教の考え方がまだ根強く残っているなかで、ひとまず、それを許容したうえで、さらに「出家しなくても」(今の生活のままで)仏の智慧を得ることができるという「大乗仏教」の経典をを強調したかった(仏道を成就ハードルを低くした)ためかもしれない。
・ここまでのところで、まだ肝腎の「仏の智慧とはどのようなものか、人間の知恵とはどのように異なるか」については、明らかにされていないが、それは「法華経」のどこまで読めば分かるのだろうか。ともかくも先を読み進める他はない。
(2019.8.27)