梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・13

《第二章 方便品》

【要点】
・多くの仏のことばは、実は異なるところはないのであり、ただひとつなのであって、二つの乗りものは存在しない。
・過去の数えきれないほど多数の劫という長い年数のあいだに量りしれない多数の仏が入滅して、その仏の種類は百千万億種類もあって、その数は量ることができない。このような多くの世尊も、種々さまざまのいわれとたとえと、数えきれないほどの教化の方法と力をもって、多くの法のありかたを演説したもうた。この多くの世尊なども、みな一乗の法を説き、量りしれないほど多数の生あるものたちを教化して、仏道に入らせたもうた。
(略)
・もしも生あるもののなかで、多くの過去の仏に出会うことがあって、またその説法を聞いて、あるいは布施、あるいは持戒、忍辱(忍耐)、精進、禅定、智慧(以上・六波羅蜜)などをもって、種々に福徳を修めているような、そのような多くのひとびとなどは、みなすでに仏道を成就している。
・あの多くの仏が入滅なさったとき、そのときもしも善いやわらかな心があったならば、このような多くの生あるものたちは、みなすでに仏道を成就している。
・多くの仏が入滅なさったあと、その遺骨を供養するものは、万億もの種類の塔を建て、金・銀およびハリ(水晶)とシャコ(美石)とメノウ(緑玉)とマイエ(赤玉)と瑠璃珠をもって、清浄に広くおごそかに飾り立てて、多くの塔をさかんに建立し、あるいは石のみたまやを建て、あるいは(略)、また沈香木をもって、また白檀にも似た木ミツをもって、ならびにそれ以外の材料、瓦を敷いたり、泥土などをもって、塔のみたまやをつくるものもある。あるいは荒野のなかで、土をつみあげて仏のみたまやをつくり、さらには少年がたわむれながら、砂を集めてきて仏塔をつくる。このようなひとびとは、みなすでに成仏しているのである。
・もしだれかが、仏のために、多くの形像を建立し、それに彫刻をして(三十二相などの)多くの相をつくりあげれば、そのひとびとはみな、すでに仏道を成就しているのである。あるいは七種の宝(金・銀・瑠璃・真珠、珊瑚、琥珀など)、自然の銅、真鍮、白蠟、鉛、錫、鉄、木、泥でつくったり、あるいは漆喰の布でもって、おごそかに飾って仏像をつくる。このようなひとびとは、みなすでに仏道を成就しているのである。
・(以下、少年が草や木や筆、爪で仏像を画く、塔のみたまやの宝像・画像を前にして、花や香や旗やおおいで供養する、鼓、笛、ほらがい、琴、琵琶、銅鑼などの音楽や歌で供養する)場合、そのひとびとはみなすでに仏道を成就しているのである、
(略)
・もしもだれかが心が散乱していても、塔のみたまやのなかに入って行って、ひとたび「南無仏」(仏に帰依たてまつる)と称するならば、そのひとびとはみな、すでに仏道を成就しているのである。
・多くの過去の仏について、あるいは現在の仏について、あるいは仏の入滅のあとになって、もしもこの法を聞くことがあったならば、そのひとびとはすでに仏道を成就しているのである。


【感想】
 ここでは、釈迦牟尼仏が現れる以前にも多くの仏はおり、その仏も同じ法(一乗)を説いているということである。その演説を聞いた人々は、その教えにしたがって、六波羅蜜の修行をしたり、仏が入滅したあと、塔やみたまやを建て、宝石で飾ったり、仏像を彫ったり、描いたり、音楽を奏でたりして、遺骨を供養した。そのような人々はみな、すでに《仏道を成就している》と述べている。
 たしか、仏道のなかには、仏の遺骨供養や偶像崇拝を否定する立場もあったようだが、ここでは、《仏道を成就している》という評価をしている。
 また、《もしもだれかが心が散乱していても、塔のみたまやのなかに入って行って、ひとたび「南無仏」(仏に帰依たてまつる)と称するならば、そのひとびとはみな、すでに仏道を成就しているのである。》という件が、たいそう興味深かった。ここでは「南無仏」と称えることが奨励されており、いわば「南無(阿弥陀)仏」と同類の『念仏』も許容されているではないか。「法華経」を最重要視している日蓮宗では、念仏ではなく「南無妙法蓮華経」(題唱)が勤行(修行)の必須条件だ。
 もっとも「方便品」の末尾には《なんじら、舎利弗と、声聞と、およびボサツたちは、必ず知らねばならぬ、この『妙法蓮華経』は、多くの仏の秘密の要点であるということを。》という記述もあるので、どちらを重視するかで立場が異なるのだろう。
 いずれにせよ、「経典」は、理詰め(客観的)ではなく、感情的(主観的)に読まなければ、意味を理解する(信心する)ことはできない。
 信仰心のない私には、とうてい無理な話ではある。(2019.8.26)