梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・12

《第二章 方便品》

【要点】
・舎利弗よ、まさにつぎのことを知らねばならぬ、わたくしはもともと誓願を立て、すべての生あるものを、わたくしのように同等に、異なることはないようにさせようと欲した。そのようにわたくしがむかし願ったところはいますでに満たされており、あらゆる生あるものを教化し、みな仏道に入らせた。 
・もしもわたくしが生あるものに出会って、かれらの全部に仏道を教えるならば、智のないものは、ここにおいて混乱をおこし、まよい惑って、教えを受けない、ということがおきるであろう。しかしながら、わたくしは、この生あるものたちが、これまでにかつて善の根本を修行しなかったということを知っている。さらにまた、かたく五官の対象になる欲望に執着して、おろかさと渇望のゆえに悩みを生じている。そして多くの欲望のいわれをもって、地獄・餓鬼・畜生という三悪道におちこんでおり、その三悪道に阿修羅・人・天を加えた六つの世界のなかで生まれかわり死にかわりして、実際に多くの苦や毒を受けている。受胎した際のかすかな身体が、世々に大きくなっていき、福徳の薄く少ないひととなって、多くの苦にさいなまれる。しかもまちがった見解の密林に入り込み、あるいは〈有る〉とかあるいは〈無い〉とかなどの、多くの邪悪な見解にとどまり、ついには六十二の見解がそなわり、[無用な討論ばかりしていた。]
・かれらは深く虚妄(いつわり)の説に執着して、かたくそれを受持しており、捨てることができない。〈わがもの〉という我の思いあがりをもち、みずから自慢し、間違っていて、こころはまじめではない。かれらは千万億劫という非常に長い年数にわたり、仏の名前を聞くことがない。また正しい法を聞かない。このようなひとびとは済度することがむずかしい。以上の理由から舎利弗よ、わたしはかれらのために教化の方法をつくって、多くの苦をなくしてしまう道を説き、またニルヴァーナを示して見せている。わたくしはニルヴァーナを説いているけれども、これは、それだからといって、真の滅ではない。そうではなくて、多くの法(もの)がもともとつねにみずから寂滅すなわちニルヴァーナのありかたをしているのである。仏の子たち(ボサツ)は仏道を修行しおわれば、来世に仏となることができるであろう。わたくしは教化の方法の力があって、それによって三つの乗りものの法を開いて示す。
・ところで、すべての多くの世尊も、みな一つの乗りものの道を説かれた。[そこで三乗と一乗ということについて]いま大勢のものたちのいだく疑惑を、みなまさに除かなければならない。


【感想】
・ここで釈迦牟尼仏は舎利弗に向かって、何を教えようとしているのだろうか。まず第一に、修行に入る前に誓願を立てたこと、第二に、その誓願は生あるものをわたくしと同等にしたいと思ったこと、第三には、その結果、今ではその誓願は満たされ、あらゆる生あるものを仏道に入らせることができた。《しかし》である。もし生あるもの《全部に》仏道を教えるなら、智のないものは、混乱し、教えを受けないということが生じるだろう、と述べている。なぜだろうか。現に、さきほど五千人もの弟子たちがこの場を去って行った。そのことに触れているのだろうか。私にはよくわからなかった。
・また、ここでも三つの乗りもの(三乗)と、一つの乗りもの(一乗)について言及しているが、どのような意図があるのだろうか。当時の仏教は小乗仏教が本流であり、それを《虚妄(いつわり)の説に執着しており》と評しているのだろうか。
・細かいことだが、釈迦牟尼仏は自分を「わたくし」または「わたし」と表現しているが、どのような違いがあるのだろうか。訳者の「気まま」ではないはずである。どなたかの御教示を賜りたい。
・私は前回の感想で《また、斉藤克司氏は、「釈尊が仏法を説き始めるときの悩みです。自分が悟った法を説くべきか否か、釈尊は迷いに迷います。」と述べているが、それは「方便品」(第二章)のどこを読めばわかるのか、私がこれまで読んだところに記されていたのだろうか。(読み落としたか!)もう一度、「方便品」の本文の戻り、さらに先を読み進めることにする。》と綴ったが、今までのところでは《世尊は迷いに迷います》に相当する本文は見当たらなかった。 
(2019.8.24)