梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・11

【解説】・2・《「法華経の智慧」(池田大作・聖教新聞社・2011年)より抜粋引用)》
《「方便」について》
(略)
池田大作:要するに「方便」とは、衆生を成仏へと導く「教育」の方法であり技術です。人間の偉大な可能性を、最大に開花させる・・・ここに法華経の心があり、そのために「方便」を説く。方便とは、広い意味での「人間教育」の手だて、と言えないだろうか。じつは、初代会長牧口先生が教授法を図式的に記したメモに「1開 2示 3悟 4入」とあるのです。牧口先生は、仏が衆生を導く方法を、教育方法として採り入れられていた。
遠藤孝紀:それは知りませんでした。しかし、とても納得できます。牧口先生の教育の主眼は、どこまでも生徒自身の可能性を開くことでした。「知識の切り売りや注入ではない。自分の力で知識することのできる方法を会得させること、知識の宝庫を開く鍵を与えることだ」と。
池田:牧口先生は、教育の混乱の原因は、その目的があいまいなことであるとし、「教育の目的は児童を幸福にすることである」とされた。当時、“国家の役に立つ”人間をつくるのが教育の目的であると多くの人々が考えていた時に、あまりにも画期的な「児童本位」「人間本位」の教育観であった。この信念から、創価教育の眼目も、一人一人が「幸福になる力を開発する」こととされたのです。そのうえで、医学にも技術があり、農業にも工業にも技術があるように、教育にも技術が必要である。機械的な「注入主義」でも、無策の「人格主義(感化主義)でもいけないと主張された。「技術」・・・すなわち「方便」です。そして教師を「無技術」「技術」「芸術」と三段階に分けたのです。どう子どもたちを幸福にするか、どう子どもたちの「幸福になる力」すなわち「価値創造の力」を引きだし、開示悟入させるか。この一点に、牧口先生は全精魂をかたむけられた。それは学者の机上の教育論ではなく、現実の教育実践のなかで、子どもたちを愛し、子どもたちを救いたいという慈愛から生みだされた教育の体系であった。
斉藤克司:(略)それで思い出されるのが、釈尊が仏法を説き始めるときの悩みです。自分が悟った法を説くべきか否か、釈尊は迷いに迷います。
「私は、仏眼をもって地獄から天界までの六道の衆生を見てみると、彼らは貧しく困窮し、福徳と智慧はなく、生死の険しき道に入って、うち続く苦悩は絶えることがない。五欲に執着するありさまは、ミョウゴが自分の尻尾を追うがごときであり、貪りと愛欲で自分をおおい、暗くて物事を見ることができずにいる。『大いなる力のある仏』と『苦悩を断ずる法』を求めないで、さまざまな誤った思想に深く染まり、苦を捨てようとして、苦を受けている。このような衆生のために、私は大悲の心を起こした」と。
遠藤:そして、衆生のあまりの救いがたさに、がく然としたのですね。「どのように救えばよいのか。悟った法をそのまま説くと、彼らは信ずることができなくて、反対に法を破壊し、悪道におちてしまうだろう。それなら、いっそのこと説かないでおいたほうがよいのか。過去の仏と同じような方法で説くべきか」
斉藤:その時、十方の仏が、釈尊をこう励まします。「すべての仏と同じように、方便力を用いなさい。私たちも皆、そうしてきたのだから」。それを聞いて釈尊は「仏のおっしゃるとおりにします」と喜び、決意する。「我れは濁悪世に出でたり。諸仏の説きたまう所の如く、我れも亦た随順して行ぜん」。(略)
池田:釈尊は「大悲の心」ゆえに悩んだのです。慈悲の「悲」とは「同苦」を意味する。「救いたい」という思いがあるから「どう救えばよいか」悩むのです。そういう慈悲があるからこそ、智慧が湧く。それが「方便力」です。「人間教育」の芸術です。仏とは、ある意味で、悩み続ける人のことかもしれない。人々の「幸福になる力」を開くために、自身の使命を果たすために。
(略)
池田:方便品に「種種因縁、種種譬喩」とあるが、仏は相手に応じ、さまざまな因縁や譬喩を使って、正しい軌道に導こうとする。この仏の力を「方便力」と言います。これは、その人のために、今、何を教えたらよいのかを知る力です。言い換えれば、人々の生命状態を洞察する力であり、適切な教えを選びとる智慧の力です。また、いかなる衆生をも成仏へ育んでいこうという慈悲の力です。その根源には、甚深無量の仏智があるのです。
(略)
池田:「方便力」とは、牧口先生の用語で言えば、「技術」の上の「芸術」、そのなかでも人間教育の最高の芸術ですね。
斉藤:方便とは何か・・・。天台は『法華文句』で、方便を、①法用方便、②能通方便、③秘妙方便の三種類に分け、秘妙方便こそ「方便品」の方便であると言っています。
(略)法用方便は当面の利益を与える面、能通方便は真実へと導く面と言えます。
遠藤:一例をあげれば、低い教えに満足しているのを叱った「二乗弾カ」は、それによって真実に向かわせようとする能通方便であるとともに、利己主義の蒙を啓くなどの利益を与えているので、法用方便の面も含んでいます。(略)
池田:仏の教育法は、まことに巧みです。仏は「天人師」と呼ばれ、また「調御丈夫」とも呼ばれます。「天人師」とは、人間だけでなく天界の神々の教師でもあるという意味です。また「調御丈夫」とは、「人を調和させるのが巧みな人」とも言える。最高の目的観に立って、人々を誤りなく指導していくからです。仏とは“人間教育の最高の教師”なのです。ともあれ、方便品で「正直に方便を捨て」と言われている方便が、法用・能通の二つの方便です。これに対し、「秘妙方便」は、まったく違う。捨てるべき方便ではなく、そのまま「真実」である「方便」なのです。


【感想】
 ここでは「方便とは何か」について語られている。池田大作氏は《方便とは衆生を成仏へと導く「教育」の方法であり、具体的には「開示悟入」という「技術」を提示している。それを「学校教育」にも採り入れ、子どもたちの可能性を引き出し、結実化させること、言い換えれば「子どもたちを幸福にすること」(一人一人が幸福になる力を開発すること)が教育の目的だとしている。それは初代会長・牧口常三郎氏の基本理念であり、現在までも「創価教育」として引き継がれているらしい。牧口氏は「価値を創り出す」ことを重要視したが、二代会長・戸田城聖氏はさらに「生命のありかた」に注目し「生命論」を展開したという。では、三代会長・池田大作氏はどのような考えなのだろうか。
 ところで「開示悟入」という技術が、どのように「注入主義」や「感化主義」の教育を克服しているのか、教育活動のどの場面で、どのように活用されているのか、具体的に知りたかったが、「法華経」精読から逸れるので、今は、戻ろう。
 また、斉藤克司氏は、「釈尊が仏法を説き始めるときの悩みです。自分が悟った法を説くべきか否か、釈尊は迷いに迷います。」と述べているが、それは「方便品」(第二章)のどこを読めばわかるのか、私がこれまで読んだところに記されていたのだろうか。(読み落としたか!)もう一度、「方便品」の本文の戻り、さらに先を読み進めることにする。
(2019.8.23)