梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・10

《第二章 方便品》
【解説】・1《「法華経の智慧」(池田大作・聖教新聞社・2011年)より抜粋引用)
《方便・・・巧みなる「人間教育」の芸術》
(略)
斉藤克司:(略)方便品は、法華経二十八品の中でも、譬喩品(第三章)、化城喩品(第七章)についで長い章です。私たちが読誦している、冒頭から諸法実相・十如是までの部分は、方便品全体の二十分の一ほどにすぎません。しかし、日寛上人は、そこまでに方便品の最重要の法門が説かれていて十分である、と述べられています。
池田大作:そうだね。法門的に見れば、方便品は、本門の寿量品(第十六章)とともに法華経の最重要の章です。南無妙法蓮華経の意義を知るうえで方便品の理解は欠かせない。その意味でも、初めに方便品全体の展開を見ておいたらどうだろうか。
《方便品の展開》
須田晴夫:はい。釈尊は序品で、無量義処三昧という瞑想に入っていました。方便品では、釈尊がこの三昧から起ち上がり、突然、舎利弗に対して「諸仏の智慧は甚深無量なり。その智慧の門は難解難入なり。」と“仏の智慧のすばらしさ”を語り始めます。
池田:法華経における釈尊の第一声だね。この第一声に意味がある。法華経が仏の智慧をそのまま説こうとした随自意の教えであることが劇的に表現されています。甚深無量の智慧は、仏にしかわからない。だから釈尊が、だれに問われるものでもなく、自ら諸仏の智慧を讃歎し始めたのです。方便品冒頭の説法が「無問自説」の形式を採っているのも、問うことさえできないほど、仏の智慧は深く、無量だからです。
(略)
池田:智慧第一とたたえられた舎利弗に向かって「お前たちにはとうてい分からない」と、いきなり決めつけ、突き放したわけですから、皆、驚いたことでしょう。
(略)
遠藤孝紀:方便品では、仏と仏とが成就した法を「諸法実相」と表現しています。天台はこれを一念三千の法理として展開し、日蓮大聖人は南無妙法蓮華経と説かれました。
池田:そう。したがって、方便品の冒頭での仏智の讃歎は、文底から言えば、南無妙法蓮華経の讃歎にほかならない。そこに、私たちがこの部分を読誦する最大の理由があります。(略)
須田:仏の智慧を讃歎してやまない釈尊に対し、列座の人々の疑問を代表して、舎利弗が「ぜひ仏の真実の法を説いてください」と嘆願します。三回お願いして、やっと三回目に釈尊は応じ、説き始めようとする。
(略)
池田:釈尊は、厳然と舎利弗に宣言する。「(略)汝は今善く聴け。当に汝が為に説くべし」。そして諸仏がこの世に出現した目的・・・「一大事因縁」とは、衆生をして仏知見(仏の智慧、仏界)を開かしめ、衆生に仏知見を示し、仏知見を悟らせ、仏知見の道に入らせることであった、と教えるのです。
須田:要約しますと、「諸仏・世尊は、ただ一つの特別な大事な目的(一大事因縁)のためにのみ、出現される」と説かれます。そして、その「特別に大事な目的」の内容が、「開・示・悟・入」の「四仏知見」として明かされます。
池田:衆生の仏知見(仏界)を開かせるということは、衆生に仏知見が具わっているということです。仏知見があるのは、衆生が本来、仏だからです。つまりこれは「衆生こそ尊極の存在なり」という一大宣言なのです。
遠藤:いわゆる「三乗方便・一乗真実」と言うことですね。「三乗」とは、二乗と菩薩乗です。乗とは“迷い”から“悟り”へ運ぶ乗り物のことで、仏の教えのことです。声聞のための教え、縁覚のための教え、菩薩のための教えという意味です。しかし、三つの別々の教えがあるわけではない。仏の教えには、ただ「一乗」があるだけというのです。「一乗」とは“唯一の教え”という意味です。それは“仏に成るための教え”であるから「一仏乗」とも言います。
池田:衆生の側から見ると、三乗という別々の教えを説かれているように見えるが、仏の側から言えば、ただ一仏乗があるのみだということです。「一仏乗」とは、全人類を仏にする、全人類を「開示悟入」させる教えです。
須田:三乗は、一仏乗に導き入れるための「方便」の教えであり、仏の「真意」は一仏乗にあるということですね。方便品では、この三乗を開いて一仏乗を顕すという「開三顕一」について、過去の諸仏、未来の諸仏、現在の十方諸仏、そして釈尊自身にあてはめていきます。(略)開三顕一の説法は方便品で終わるわけではありません。人記品(第九章)まで続きます。法華経前半(シャク門)の大テーマと言えます。


【感想】
 ここまででわかったことは、①諸仏は、仏の智慧を衆生に「開・示・悟・入」(四仏知見)するために出現した(一大事因縁)、②諸仏の教えは、相手によって異なるように見えるかもしれないが、実は一つである(一仏乗)、③衆生には、本来「仏性」が具わっているから、誰でも「仏に成る」ことができる。
 私自身は衆生のなかの「凡夫」にほかならない(もしかしたら餓鬼、畜生かもしれない)ので、自分の中に「仏性」が具わっているとは思えない。しかし、仏の智慧を示され、その意味を理解し(悟り)、会得することができれば、何よりだ。ただ、仏の智慧は「まさに南無妙法蓮華経だ」と言われても、そしてそれを題目として唱えたり、あるいは「方便品」の冒頭部(二十分の一)を読誦したりしても、そのことで「仏の智慧」を悟ることができるのか、曖昧模糊としている。