梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・9

《第二章 方便品》

【要点】
・わたくしは、右に述べた九つの法を、それぞれの生あるものたちにふさわしいように説いてきたが、そのことは、それらによって、この大乗に入るのに本となることから、その理由のゆえに、この経を説いたのである。
・ここには、仏の子であって、心が清浄であり、やわらかでおだやかであり、また素質がすぐれており、量りしれないほど多くの仏がおられるところで、奥深くすぐれた道を行じてきた。この多くの仏の子たちのために、この大乗経を説き、このようなひとびとは、来世にかならず仏道を成就するであろうと、わたくしは未来の成仏を予言するのである。心に深く仏をじっと思い、戒を浄らかに守り、保持するがゆえに、これらのものたちは仏に成ることができるであろうと聞いて、大きな喜びがこのひとびとの身体に充ち、あまねく行きわたるとき、仏はそのひとびとの心と修行とを知るがゆえに、かれらのために大乗を説くのである。
・声聞またはボサツで、わたくしが説く法について、そのうちのひとつの詩を聞くならば、そのひとびとはみな仏となることは、疑いのないところである。
・十方の仏の国土のなかには、ただひとつの(仏の)乗りものの法だけがあって、第二の法もなく、また第三の法(の乗りもの)も存在しない。(略)
・多くの仏が世界に出現されたのは、ただ以上のべた一事だけが真実であって、それ以外の第二のものはすなわち真実ではないから、仏は劣った乗りもの(小乗)をもって、生あるものを済度なさることはない。仏はみずからすぐれた乗りもの(大乗)にとどまって、その得られた法を、禅定・智慧の力によっておごそかに飾り、これをもって、生あるものたちを済度されるのである。
・みずから最高の仏道である大乗の、すべてのものが平等であるという法をさとり、もしも劣った乗りもの(小乗)をもって、だれかあるひとを教化するならば、その場合には、わたくしはものおしみ・むさぼりに陥るであろう。このことはまったく誤りである。
・もしも仏を信じて仏に帰依するひとがいるならば、如来は欺くことはない。また貪欲・嫉妬の心もない。多くの法のなかの悪をすでに根絶したからである。それゆえ、仏は十方において、独自であり、なにものをも畏れるところはない。わたくしは、(三十二の)特相をもって、身体を飾り、光明をもって世界を照らし、量りしれないほどの多数のひとびとに尊敬され、かれらのために、すべての法のありのままのありかたを説くのである。


【感想】
 ここでも、釈迦牟尼仏は、大乗経典は優れており、小乗経典は劣っていることを《強調》している。そして、この「法華経」こそが、生あるもののうち、仏を信じ、仏に帰依しようとするものは、すべて《平等に》成仏させることができる、と述べている。生あるもののすべてには仏性が備わっており、それを顕在化できるか否かは、各々の「信心」の深さに因るということを、述べているのだろうか。
 また、前節で述べられていた「九つの法」《経典(スートラ)・詩句(ガーター)・昔話(イディヴリタカ)・前生物語(ジャータカ)・奇蹟(アドブタダルマ)・いわれ(ニダーナ)・たとえ(アウバムヤ)・歌謡(ゲーヤ)・論議(ウバデーシャ)》が、「大乗に入る」《本》だとも述べている。これは、生あるものの「実態」によって、教化の方法をいろいろに使い分けるということだろうか。ともかくも、これまでの内容を【解説】(「法華経の智慧」(池田大作・聖教新聞社・2011年))で確認してみたい。
(2019.8.20)