梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・7

《第二章 方便品》

【要点】
・そのとき世尊は、舎利弗にお告げになられた。
「いま、ここに集まっているものたちには、幹とはなれないような枝や葉はいなくなり、全く純粋に誠実なものだけになった。舎利弗よ、このような思いあがった慢心をいだく人々は、退いているがよい。なんじよ。いまよく聴くように、まさになんじのために(この法を)説こう。」
・舎利弗はいった。
「まったく、そのとおりであります。世尊よ、どうか喜んでお聞きしたいと欲します。」・仏は舎利弗にお告げになった。
「(これから説く)このようなすぐれた法は、多くの仏・如来が、あるときにかぎってこのような法を説くのであって、それはウドンバラの花が、非常に長い年月の間に、ただ一度だけ現れるようなものである。舎利弗よ、なんじらは、まさに仏の説くところを信ずべきである。仏の説くことばは虚妄(いつわり)ではないからである。舎利弗よ、多くの仏のそれぞれにふさわしいように独自に説く説法の意図する趣旨は、理解することがむずかしい。なぜかといえば、わたくしは数え切れない多数の教化の方法と、種々さまざまのいわれとたとえとことばとをもって、多くの法を演説してきた。ところがこの法は、(通常の)思量・分別をもってしてはよく理解することはできないところであって、ただ仏だけが、すなわちよくこれを御存知なのだからである。なぜかというと、多くの仏・世尊は、ただひとつの特別な大事のいわれがあるときに、そのいわれのゆえにのみ、出現されるからである。舎利弗よ、どのようなものを、多くの仏・世尊は、ただひとつの特別な大事のいわれがあって、そのいわれのゆえに出現されると称するのであるか。それは、多くの仏・世尊は、生あるものたちに、仏の智慧の見解を開いて教え、清浄なることができるようにさせようと欲するがゆえに、世界に出現された。生あるものたちに、仏の智慧の見解を示そうと欲するがゆえに、世界に出現された。生あるものに仏の智慧の見解をさとらせようと欲するがゆえに、世界に出現された。生あるものに、仏の智慧の見解の道に入らせようと欲するがゆえに、仏は出現されたのである。舎利弗よ、以上のことを、多くの仏は、ただひとつの特別の大事のいわれがあって、それをもってのゆえに、仏は世界に出現されたのである。
・仏はさらに舎利弗に告げられた。
「多くの仏・如来は、ただボサツだけを教化なされる。多くのことがらをなされるけれども、それらはつねにこの一事のためである。すなわち、ただ仏の智慧の見解をもって、生あるものたちに示しさとらせるためである。舎利弗よ、如来はただひとつの仏の乗りものをもってのゆえにのみ、生あるもののために法を説かれた。それ以外の乗りもの、あるいは第二の(乗り)もの、あるいは第三の(乗り)ものは存在しない。


【感想】
・ここから、いよいよ釈迦牟尼仏の解説がはじまる。まず、途中から退出していった五千人の弟子たちを「思いあがった慢心をいだく人々」と評したうえで、《仏・如来がこの世界に出現したわけ》について述べている。それは、生あるものたちに、仏の智慧の見解(仏の、ものの考え方)を、①開いて教え、②示そうとして、③さとらせ、④その道に入らせよう、とするためである。
・さらに、釈迦牟尼仏は、《如来はただひとつの乗りものをもってゆえにのみ、生あるもののために法を説かれた》と説いているが、それ以外の乗りものとは何をさしているのだろうか。バラモン教?それとも小乗仏教の経典?いずれにせよ、「法華経」にすべての教えが含まれているから、まずその内容を究めなさい、と説いているのだろう。
(2019.8.18)