梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・6

《第二章 方便品》



【要点】
・そのとき、世尊は、三昧より安らかにゆったりと起って、つぎのように舎利弗に説かれた。
「多くの仏が到達している智慧は、はなはだ深く、際限がない。その智慧の門は、理解しがたく、入りがたくて、一切の声聞(教えを聞いている修行者)も辟支仏(独りで覚る修行者、縁覚、独覚ともいう)も到底知ることのできないところである。」
(略))
「舎利弗よ。如来は、智慧と見解とが広く大きく深く奥深く、[四]無量[心]、[四]無ギ[弁]、[十]力、[四]無所畏、禅定、[八]解脱、[三]三昧がある。それらの特性があって、限界のない境地に深く入りこんで、一切の未だかつてない法をなしとげた。
 舎利弗よ。如来は、よく種々さまざまに分けて説き示し、巧みに多くの法を説く。しかもそのことばはやわらかで、大勢のものの心を喜ばせ安らかにさせる。
 舎利弗よ。要点をとっていえば、量られず、限りのない無量・無辺の未だかつてない法を、仏はことごとく成就した。
 舎利弗よ。もうこれ以上説くことはやめよう。また説くこともできないのだ。なぜかといえば、
《仏が成就したところは、第一のものであり、まれにしかないものであり、理解しがたい法である。それはただ仏と仏とだけでのみ、すなわちよく、すべての法のありのままのありかたが究め尽くされるのである。それはいわゆるつぎの十のありかたである。①多くの法はどのような特徴をもった法であるか(如是相)、②どのような特徴をもった性質であるか(如是性)、③どのような本質をもっているか(如是体)、④どのようなはたらきをもった能力であるか(如是力)、⑤どのような作用をもっているか(如是作)、⑥どのような[直接的な]原因があるのか(如是因)、⑦どのような[間接的な]原因があるのか(如是縁)、⑧それらによってどのような結果が生じるのか(如是果)、⑨またどのような果報が生ずるのか(如是報)、⑩第一の相から第九の報までが、どのように一貫しあって平等であるか(如是本末究竟等)ということである。》(*『妙法蓮華経』全体を要約しているので「略法華」と呼ばれて尊重されている)


 そのとき、世尊は、同じことを再び重ねてこの意義を宣べようと思って、つぎの詩を説いていわれた。
「世界の雄者である仏たちは、量ることのできないほどである。多くの天とおよび世界のひとびと、さらに一切の生あるものの類が、よく仏を知ることができるものがないからである。多くの天とおよび世界のひとびと、さらに一切の生あるものの類が、よく仏を知ることができるものがないからである。仏の[十]力と、[四]無所畏と、[八]解脱と、多くの[三]三昧と、および仏のみが有する多くの他の法とは、それらをよく測量することのできるものはない。[仏は]もと、無数の仏にしたがって、多くの道をそなえみたして修行した。奥深く、精微で、すぐれた法は、見ることがむずかしく、了解することもまたむずかしい。
(略)
 たとえ十方にみな舎利弗のような賢者が満ち満ちて、そのほかの弟子もまた十方の国々に満ち満ちて、一緒になって、できるかぎりの思慮を尽くして量っても、それを知ることはできない。
(略)
 また[仏は]舎利弗に告げられた。「煩悩の汚れがなく、不思議であって、奥深く、精微で、すぐれた法を、わたくしはそなえることができた。ただわたくしだけが、このありかたを知っている。十方の仏もまたそのとおりである。(略)わたくしは苦の束縛から脱せしめ、ニルヴァーナを完全に体得させた。そのために、仏は教化の方法の力によって(それぞれの機根にふさわしいように、声聞・縁覚・ボサツという)三乗の教えをもって示し、生あるものが、そのところどころに執着すると、それから引き出させて、執着を脱することを可能にさせた」
 そのとき、そこに集まっていた大勢のなかで、多くの声聞、聖者など千二百人と、ビク・ビクニ・在家の男性信者・在家の女性信者とがいて、各々、つぎのように考えた。
「いま、世尊は、どういうわけで、つぎのようにいわれたのであろうか。『仏が到達したところの法は、一切の声聞、辟支仏でもそれには到底およぶことができない』と。わたくしたちもまた、この法を得て、ニルヴァーナに到達している。・・・・」
 そのとき、舎利弗は、四衆が心に疑問をもっているのを知り、そのうえ、自分自身もまた、未だ了解し得ないので、仏につぎのように申し上げた。
「世尊よ、どういうわけで、どういう動機があって、多くの仏の第一の教化の方法である、すぐれている法を、これは理解しがたい法であるとして称歎なさっておられるのですか。(略)世尊よ、このことを広く説明してください。」
(略)
 そのとき、仏は舎利弗につぎのように告げられた。
「止めるがよい。止めるがよい。そのことは説いても、なんになろうか。もしこのことを説けば、すべての世間の天および人々は、みな必ず驚いてびっくりするであろうから」
(*舎利弗は、再度、同じ質問を繰り返した。)
仏はまた舎利弗をおしとどめた。
「もしこのことを説けば、すべての世間の天および人々は、みな必ず驚いてびっくりして、そのうえ、思いあがった慢心のあるビクは、大きな穴におちこむであろう。」
「わたしのさとった法はすぐれていて、考えることもむずかしい。多くの思い上がった慢心のあるものは、それを聞けば、必ず尊敬し信ずるということをしないであろう。」
(*それでも舎利弗は、あきらめずに同じ質問を繰り返した。)
 そのとき、世尊は舎利弗につぎのように告げられた。
「なんじはすでに、三たび請うた。どうして説かないことができようか。なんじよ、いまあきらかに聴くがよい。そしてよくこのことを考え、心にとどめるがよい。わたくしは、まさになんじのために、分別して解説しよう」
 この話を仏が説かれたときに、会座のなかにビク・ビクニ・在家の男性信者・在家の女性信者の五千人がおって、その会座から起ちあがって、仏に礼拝して退出した。なぜかというと、このひとびとは、罪の根が深く重いうえに、思いあがって慢心を抱いており、まだ獲得していないものを獲得したと思い、まださとっていないものをすでにさとったと思っていて、このような過失があった。こういう理由から、ここにとどまらなかったのである。世尊は沈黙のまま、制止なさらなかった。


【感想】
 釈迦牟尼仏は、三昧を終えると、舎利弗に仏の智慧の難解さを説いた。その内容は、言葉では表せない、ということだが、舎利弗が諦めずに三度、請願すると「それなら解説しよう」ということになった。ただ、方便品の冒頭で、如来の持っている「徳」(四無量心、四無ギ弁、十力、四無所畏、禅定、八解脱、三三昧)と、法のありのままの「十のありかた」(如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本来究竟等)は明らかにされている。それらについて、釈迦牟尼仏はどのように解説するのだろうか。
 釈迦牟尼仏が舎利弗の依頼を二回断ったのは、聴衆のなかに「ふさわしくない」連中がいることを知り、ふるいにかけようとしたためだろうか。いずれにせよ、弟子たちのなかにも、つねに「離反者」が居るということが示されており、興味深かった。
(2019.8.16)