梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・5

《「序品」解説・登場人物について》(「法華経の智慧」(池田大作・聖教新聞社・2011年)より抜粋引用))


池田大作:(冒頭では)法華経のドラマが始まるにあたって、「舞台」と「登場人物」が紹介されているわけだね。
(略)
遠藤孝紀:「登場人物」ですが、経文の順に示すと次のようになります。
①アニヤキョウジンジョやカショウ・舎利弗などアラカンの境地を得た一万二千人のビクたち。そのほかに学や無学の二千人の声聞もいます。
②釈尊の叔母・マカハジャハダイビクニ、釈尊の出家前の妻・ヤシュダラビクニとその眷属数千人。
③文殊菩薩、観世音菩薩など八万人の菩薩たち。
④帝釈天、四大天王、梵天など天界の王や天子たち。その眷属は七~八万。数え方によっては十数万になります。
⑤八人の竜王とその眷属。
⑥四人のキンナラ王とその眷属。
⑦四人のケンダッパ王とその眷属。
⑧四人の阿修羅王とその眷属。
⑨四人のカルラ王とその眷属。
⑩阿闍世王とその眷属。
 以上、ざっと数えて、少なくとも数十万、解釈によっては数百万の衆生が法華経の聴衆です。
(略)
斉藤克司:列座大衆のそれぞれは、すべて生命の働きの象徴と考えられます。十界で言えば、菩薩界、声聞界、天界、人界、修羅界、畜生界の衆生がいる。そこにあげた大衆をもって、九界全体を代表させているようです。
遠藤:そうとらえると、あげられている大衆のそれぞれに意義があるはずですね。代表的なものの意味を考えてみましょう。
須田春夫:まず最初にあげられているアニヤキョウジンジョ。彼は、釈尊が成道した後、初めて教化した五人のビクの一人です。
池田:いわば、釈尊の最初の弟子だね。最後にあげられている阿闍世王は、ダイバダッタと共謀して、釈尊に敵対した人物です。釈尊の晩年になって自らの罪を悔い、釈尊に帰依したと伝えられている。最初の弟子と最晩年の弟子がいるということは、釈尊の一生の間の門下をすべて含めている象徴と見ていいかもしれない。
(略)
池田:「御義口伝」では列衆の意義を生命論から解明されている。アニヤキョウジンジョについては「我等法華経の行者の煩悩即菩提生死即涅槃を顕したり」と。また父を殺し、母をも殺そうとし、釈尊に背いたのが、阿闍世王です。その反逆の生命については、法華不信の心や、貪愛・無明を殺して成仏を遂げていく「逆即是順」の原理を表す、とされている。
須田:(カショウや舎利弗など有力な弟子の)直後に、釈尊の叔母、(出家前の)妻を代表とする女性の声聞があげられていることが注目されます。また、阿闍世王の名をあげるときも、母親のイダイケ夫人の名をあげています。
池田:「女人成仏」の象徴として、ダイバダッタ品(第十二章)の「竜女の成仏」は有名だが、法華経で女性の成仏が説かれるのはここだけではありません。(略)法華経の象徴とされる「女人成仏」は、序品からすでに予定されていたと見てよいでしょう。(略)法華経全体から見れば、仏になることにおいて男女に差別がないことは、当然のことと見なされていたのだね。
斉藤:重要なポイントだと思います。次に登場するのは、八万人にものぼる菩薩たちです。これらの菩薩については人々を救おうとする慈悲の行動がたたえられています。
池田:初めに声聞、次に菩薩があげられている。(略)声聞から菩薩へという担い手の転換が、法華経を理解する一つのカギになっている。
遠藤:序品で登場する菩薩たちの名前も興味深いですね。文殊師利菩薩、観世音菩薩、弥勒菩薩、薬王菩薩などはよく知られていますが、ジョウショウジン菩薩、ホウショウ菩薩、ダイリキ菩薩、ホウゲツ菩薩など、あまり聞いたことのない菩薩の名もあります。
池田:それらも、すべて菩薩の生命のさまざまな側面を示したものと考えられる。常精進菩薩、不休息菩薩は文字通り、常に仏法のために休みなく戦い続ける生命を象徴している。(略)
斉藤:菩薩の次は、天界の衆生があげられます。筆頭は、天界の帝王である帝釈天です。帝釈天は、もともとは古代インド神話の中心的な神の一つであるインドラ(雷神)でした。(略)
池田:神々が法華経の説法を聴きに来ているということは、仏が神々をも超え、それらを導く存在であることを示している。(略)成道した釈尊に、梵天が説法を要請したとされているが、仏を、インドの伝統的な神々をはるかに超えた存在として位置づけるのが、仏法の基本的な考え方です。
斉藤:次に八竜王があげられます。(略)このうちシャカラ竜王の娘が、「女人成仏」の範を示した竜女です。
遠藤:さらに八部衆と呼ばれる種々の想像上の衆生があげられています。
須田:八部衆とは①天(天界に住む天)、②竜(海・池などに住む畜類)、③夜叉(森などに住む鬼神)、④ケンダッパ(帝釈天に仕える音楽の神)、⑤阿修羅(天に敵対し、須弥山下に住む鬼神の一つ)、⑥カルラ(竜を主食とする鳥で、翼・頭が金色なのでコンジチョウと訳される)、⑦キンナラ(楽器を奏する音楽の神で半人半獣の姿)、⑧マゴラカ(人身・蛇頭の神)です。
池田:人間だけではない。広く、生きとし生けるものを救おうとしているのです。また仏教以前からインドの各地で信仰されてきた神々が、法華経の会座に列座しているのも興味深い。これは、これまで最高の存在とされた神々を、「外にあって人間を支配する実体」ではなく、人間の生命、そして宇宙の生命の「働き」としてとらえたからです。このように、仏の悟りは深く生命の根源に到達しているのです。その根源の一法を明かすのが法華経です。ゆえに法華経を行ずる者は、諸天をも動かす生命の王者となる。大聖人は「心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐ろしと思わず」と仰せです。また、天と阿修羅、竜とカルラといった敵対関係にある者たちが、同席しているのもおもしろい。民族対立をあおるような宗教は低級宗教だ、と言っているようだね。法華経は平和と平等の教えです。


【注】この後、法華経の「舞台」について言及されているが、省略。


《「序品」についての感想》
 ここでは、釈迦牟尼仏が「法華経」について説こうとするとき、①どこで、②誰にむかって説こうとしているか、が述べられている。
 池田大作氏は、「法華経」の字面だけを読むだけでは、その意味を理解することはできない、と強調している。つまり「信心」して読まなければならない、言い換えれば、述べられていることに「一切の疑い、疑問を差し挟むことなく」「すべてその通りだ」と《感嘆》《感動》《歓喜》しながら読まなければ、その意味、つまり『仏の智慧』を知り、身につけることはできない、ということであろう。『仏の智慧』が「人間の知恵など遠く及ばない」崇高なものであることは、想像できるが、ともかくも「信心」しなければ、それを理解することはできない。では、どうすれば「信心」できるようになるのか。「三昧」(瞑想)に入ればよいのか、それもまた、どうすればよいのか、私にはわからない。
 私の友人は「東の方角に向かって“南無妙法蓮華経”と唱えればよい」と教えてくれた。そのようにしてみたが、変化は見られない。
(2019.8.14)