梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・4

【要約】
・世尊の説く大乗経典を聞き、その後の奇蹟を見聞した弥勒ボサツは、「これはどういうわけか?何かの前兆なのだろうか?」と考え、尋ねようとしたが、世尊は瞑想しているので尋ねることはできない。そこで、その場に居た文殊師利に尋ねた。  
・文殊師利は、「このようなことは、過去の仏も行った。仏はその後、大乗経典の『妙法蓮華経』を説いた。だから世尊もこの後、『妙法蓮華経』を説くだろう。
・過去の仏は二万もいたが、皆、日月燈明仏という名前だった。最後の日月燈明仏には八人の王子が居た。各々が四つの天下(四大洲)を領土としていたが、父が出家すると、王位に就くことを捨て、皆、出家し、善根を積んだ。父の日月燈明仏は、大乗経典を説いた後、三昧に入ったが、天は曼荼羅華、曼珠沙華の花を雨と降らせた。世界は六通りに振動した。その場に居たビク・ビクニたち四衆は、歓喜し、合掌して、一心に仏を観た。すると、仏は、眉間から光を放ち、東方の一万八千の国土を照らし出した。その様子は、今回と全く同じである。・このとき、光が放たれたわけを知ろうとしたボサツが居た。ミョウコウ・ボサツという。日月燈明仏はこのミョウコウ・ボサツに『妙法蓮華経』を説いた。その後、日月燈明仏は入滅して彼岸に渡られたが、ミョウコウボサツは『妙法蓮華経』保持して、ひとびとのために演説した。八人の王子は、ミョウコウボサツを先生として、数え切れない仏を供養しおわって仏道を成就した。
・その最後に仏となったのは燃燈という名前だったが、その弟子の中に求名という号の者が居た。彼は、利得をむさぼり、多くの経典を読誦しても忘れてしまうことが多いので、求名という号がつけられた。
・弥勒ボサツよ、これまでに登場したミョウコウボサツとは私・文殊師利であり、求名ボサツとはあなた・弥勒ボサツのことなのだ。
・つまり、今と同じようなことが、長い年月にわたって繰り返されてきたということである。


【解説】(「法華経の智慧」(池田大作・聖教新聞社・2011年)より抜粋引用)
池田大作:日月燈明仏が説いた究極の教えも法華経、釈迦仏がこれから説く教えも法華経・・・この点が重要です。序品では文殊が過去世に出会った日月燈明仏だけでなく、それ以前に二万の日月燈明仏がいたとされている。ここには、すべての仏が説く究極の大法が法華経であることが、暗示されています。それだけではない。第七章では大通智勝仏が、第二十章では威音王仏が法華経を説いている。日月燈明仏の弟子の妙光菩薩も、大通智勝仏の弟子の十六人の菩薩も、それぞれの仏の入滅後に法華経を説いている。威音王仏の滅後には、不軽菩薩が、いわゆる“二十四文字の法華経”を唱えている。法華経はつねに「滅後のため」の教えなのです。さらに、これら過去仏が説く法華経は、膨大な量であることが示されている。「日月燈明仏の法華経」は六十小劫というじつに長い時間をかけて説かれた。法華経とは、私たちが今日、見ることができる八巻二十八品の「釈尊の法華経」だけを言うのではないということです。説かれた形態は違っていても、すべて法華経なのです。
斉藤克司:いわば“普遍的な法華経”が想定されていますね。
池田:(略)大聖人は、法華経に「広・略・要」を立てられています。「要」の法華経とは、ご自身の南無妙法蓮華経です。現時において修行すべき法華経とは、この「要」の法華経です。過去仏の膨大な量の法華経が「広」の法華経だとすれば、二十八品の法華経が「略」の法華経。二十八品が「広」だとすれば、不軽菩薩が唱えた二十四文字の法華経などが「略」になる。戸田先生は、①法華経二十八品、②天台の「摩カ止観」、③大聖人の南無妙法蓮華経を「三種の法華経」と呼んでおられます。


(中略)


斉藤:序品の冒頭の「如是我聞」の意義についても、“普遍的法華経”の観点からとらえていくことができるのではないかと思います。つまり、「如是」とは何をさすのか、“このように聞いた”中身は何かという問題です。それは一応、「法華経二十八品」をさしていると言えますが、それだけにはとどまりません。
遠藤孝紀:この「所聞の法体」(“何を聞いたのか”)について妙楽大師は「二十八品全体」だと普通に解釈しました。しかし、大聖人は、そのうえで、法体とは「諸法の心」であり、それは「妙法蓮華経」であると仰せです。
池田:日蓮大聖人は、「文・義・意」という原理を示されている。文とは経文の文面のことであり、義とは文がさし示す教義・法理にあたる。経文の文面を見ているだけでは、この「義」までしかとらえられません。法華経の「心(意)」にふれなければ意味はない。大聖人は、結論的に「法体とは南無妙法蓮華経なり」と仰せである。「法体」「諸法の心」とは、二十八品全体に脈打つ「仏の智慧」そのものです。その智慧が「南無妙法蓮華経」です。それを「その通りに聞く(如是我聞)」とは「信心」です。「師弟」です。師匠に対する弟子の「信」によってのみ、仏の智慧の世界に入ることができる。(略)この観点から言えば、法華経の「如是我聞」とは、全生命をかたむけて仏の生命の響きを受けとめ、仏の生命にふれていくことです。「如是」とは「その通りだ」と聞き、生命に刻んでいく信心、領解を表している。また、それが全人格的な営みだからこそ「我聞」とあるのです。全人格としての「我」が聞くのであって、たんに「耳」が聞くのではない。この「我」とは普通は、経典結集の中心者とされる阿難等です。しかし、その「心」は、末法の今、この自分自身が「我」である。自分が、大聖人の南無妙法蓮華経の説法を、全生命で聞き、信受していくのが「如是我聞」の本義なのです。(略)自分の外に置いて読むのではない。すべて「我が身の上の法門」であり「我が生命の法」であると聞くべきなのです。
遠藤:それで明快となりました。(略)
池田:「如是我聞」の心とは「師弟不二」の心です。それが仏法伝時の極意です。一切衆生を救おうとする仏の一念と、それを体得し弘めようとする弟子の一念が、響きあう「師弟不二」のドラマ・・・それが「如是我聞」の一句に結晶しているのです。しかも、法華経は「滅後のための経典」です。「仏の滅後の衆生救済をどうするか。だれが法華経を受持し、弘めるのか」。序品の舞台からすでに、この根本のテーマが奏でられている。日月燈明仏の後を継いで、弟子の妙光菩薩が法華経を説き、日月燈明仏の八人の王子をはじめ人々を成仏させていく・・・これも、その一つです。


(後略)


須田春夫:ところで、「聞く」ということは人間生命にとって、とりわけ深い意義があるように思われます。(中略)五感の中で最初に獲得されるのは聴覚らしいのです。広く言えば、「聞く」ということは、聴覚だけでなく、宇宙に満ち満ちた不思議なるリズムを感じとる生命の力、と言ってもよいでしょう。


(中略)


斉藤:法華経でも「法を聞く」(聞法)ということが大変に重視されています。とくに方便品や寿量品などの重要な説法の後では、必ず「法華経を聞く功徳」が説かれています。
池田:大聖人も「この経は専ら聞を以て本と為す」と仰せです。だから、仏の「声」が重要な意味を持っている。「妙法蓮華経」の「経」の意義について「声仏事を為す之を名づけて経と為す」と述べられているゆえんです。


(中略)


斉藤:「南無妙法蓮華経」という題目自体に、不思議なリズムを感じます。念仏が“哀音”と言われるように、陰々滅々とした暗い音調であるのにくらべて、題目は人を勇気づけ、躍動させる力強い音律があります。


(中略)


池田:題目こそ宇宙の根源のリズムであり、尊極の音声である。大聖人は仰せです。南無妙法蓮華経には、一切衆生の仏性「唯一音」に呼び顕す無量無辺の功徳がある。また、凡夫という無明の卵を温め、孵化させ、仏という鳥へと育てる「唱えの母」であると。そして大聖人は「声もおしまず唱うるなり」と述べられている。声を惜しまずといっても、声の大小ではない。一切衆生を成仏させようといういう慈悲の大音声です。(以下略)


(2019.8.13)