梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・3


【要点】
・そのとき、弥勒ボサツはつぎのように考えた。「いま、世尊は奇蹟のすがたをお示しになった。どういうわけで、この(奇蹟の)前兆(瑞相)があるのであろうか。しかしいま、世尊は三昧にお入りになってしまっている(ので、直接おたずねすることはできない)。この不可思議で、あり得ないことが示されたことを、わたくしは誰に質問したらよいであろうか。誰がこのことに答えることができるであろうか。」
・またかれはつぎのように考えた。
「この王子の位にある文殊師利は、すでに昔、かつて過去の量りしれない多数の諸仏に親しく奉仕し、供養をしたことがある。この文殊師利は、これまでにこのあり得ないすがたを見たことがあるにちがいない。わたくしはいまこれから、かれにたずねることにしよう。」・そのとき、ビク・ビクニ・在家の男性信者・在家の女性信者、および多くの天・竜・鬼神なども、(弥勒ボサツと)同じことを考えた。
・そのとき、弥勒ボサツは(その場に集まっていた)四衆の心(の疑問)を観じとって、文殊師利に質問していった。
・「どういうわけで、このめでたい奇蹟のすがたがここに現れて、大光明が放たれて、東の方の一万八千の国土を照らし、ことごとくかの仏の国土の領域の尊くおごそかなすがたが見られたのでしょうか。」


(中略)


・そのとき文殊師利は、弥勒ボサツ・マカサツおよび多くのすぐれた人々に語った。
「善男子たちよ。私の考えでは、いま仏世尊は、偉大な法を説き、偉大な法の雨を降らせ、偉大な法のほら貝を吹きならし、偉大な法の太鼓をうちならし、偉大な法の意義を演説なさろうと欲しているのでありましょう。多くの善男子よ。わたくしが過去の多くの仏において、かつてこの種類の前兆を拝見した際には、(その仏たちは)この光を放ちおわってから、すぐに偉大な法を説かれました。この理由によって、当然つぎのようなことを知るべきであります。すなわち、いまこの仏が、光を現しなさったことも、またそれと同様であって、生あるものに、ことごとく世界全体にある信じがたい法を聞き、また知ることができるようにと欲せられたがゆえに、この前兆を現されたのでありましょう。


・多くの善男子よ。過去の、無量・無辺・不可思議・無数という数えられない劫(非常に長い年数)というずっと昔の時代に、そのときに仏が出現されました。それは日月燈明という名の如来であり、聖者であり、完全無欠なブッダであり、明らかな智と実践とがそなわっており、行いが正しくて、世界のことを知っており、最高者であり、人間の調教師であり、天と人間の師であり、仏であり、世尊と呼ばれました。
・このかたが正しい法を演説なさったときには、はじめもよく、中もよく、終わりもよくて、その教えの意義は深く奥深く、そのことばは巧みですぐれていました。声聞を求めるもののためには、四諦の法を説き、生老病死の苦を渡しきって、ニルバーナに到着させました。また辟支仏=縁覚を求めるもののためには、十二因縁の法を説きました。また多くのボサツのためには、六波羅蜜を説いて、最高の完全なさとりを得て、全智者(仏)のもつ智を達成させました。
・そのつぎにまた仏が出現されました。この仏もまた日月燈明という名前でした。
・そのつぎにまた仏が出現されました。この仏もまた日月燈明という名前でした。
・このようにして、合計二万の仏は、みな同一の名称であって、みな日月燈明という名前でした。また同一の血統であって、バラダを姓としていました。


・弥勒よ。まさに知るべきであります。はじめの仏と後の仏とは、みな同一の名称であって、すべて日月燈明という名前であり、如来の十号をそなえていました。その如来が説かれる法は、初めも中も後もよく、すぐれていました。
・その最後の仏がまだ出家なさらなかったときに、八人の王子がありました。第一はウイという名前であり、第二はゼンニ、第三はムリョウイ、第四はホウイ、第五はゾウイ、第六はジョギイ、第七はコウイ、第八はホウイという名前でした。この八人の王子は、おごそかな徳が自在であって、各々が四つの天下(四大洲)を領土としていました。この多くの王子は、その父が出家して、最高ものはの完全なさとりを獲得されたということを聞くと、ことごとく王位につくことを捨てて、父王にしたがって出家し、大きな乗りもの(最高の完全なさとり)を求めようとする心をおこし、つねに純潔の行を行って、みな法師となりました。そして千万もの多数の仏の許にあって、多くの善根を植えました。
・このとき、日月燈明仏は、大乗経(典)を説かれました。その大乗経は無限の奥深い内容をもち、ボサツを教える法であり、仏に護り念ぜられるものを名づけたものであります。・この経を説き終えられてから、すぐに大勢の集まりの中で、両足を組む結跏趺坐に入られ、「無限の奥深い意義の基礎」という名の三昧に入って、身体も心も一切動揺しませんでした。
・このとき、天は、曼荼羅華、マカ曼荼羅華、曼珠沙華、マカ曼珠沙華の花を雨と降らせて、それらが仏の上、および多くの大勢のもののうえに散りかかり、そして、仏の世界はひろく六とおり(東西南北と上下)に振動した。そのとき、その会座にいたビク、ビクニ、在家の男性信者、在家の女性信者、天、竜、夜叉(鬼神)、ケンダッパ、阿修羅、カルラ、キンナラ、マゴラカ(鬼神)というひとびとの四衆と、ひとではない天以下の八部衆(いずれも仏法を守護する)と、および多くの集まった大勢は(このようなことは)未だかつてなかったことがらに出会うことができて、歓喜し、合掌して、一心に仏をじっと観たてまつった。
・そのとき、如来は、眉間のところにある巻き毛から、光を放って、東方の一万八千の世界を照らされた。その光はあまねく行きわたらないところはなく、そのありさまは、ちょうどいま、ここに見られる多くの仏の国土のようでした。


・弥勒よ。まさに知るべきであります。そのとき、その会座に、二十億のボサツがつきしたがっており、喜んで法を聴くことを望んでいました。この多くのボサツたちは、この光明があまねく仏の国土を照らすのを見て、このようなことは未だかつてないことであることを知りました。そこでこの光が放たれたいわれを知ろうと欲しました。そのときにボサツがいました。名前をミョウコウといい、八百人の弟子がいました。
・このときに、日月燈明仏は、座禅三昧から起ちあがって、このミョウコウボサツを機縁として、大乗経(典)の『妙法蓮華経』を説かれました。その大乗経はボサツを教える法であり、仏に護り念ぜられるものと名づけたものであります。仏は六十小劫の間、じっと席を起たれませんでした。そのときの会座にいた聴くひとびともまた、一つところに座ったまま、六十小劫の長い間、身体も心も一切動揺しませんでした。そして仏の説かれるところを聴くのは、食事をするぐらいの短い時間のごとくであると思われました。このとき、大勢のなかには、だれひとりとして、身体、または心が、怠りなまけるものはいませんでした。
・日月燈明仏は、六十小劫にわたって、この経を説きおわると、すぐに梵、魔、沙門(出家修行者)、バラモン、および天、人、阿修羅の集まりのなかにおいて、つぎのことばを宣べられました。
『如来は今日の夜半に、必ずや心身ともに余すところのない完全なニルヴァーナに入るであろう』と。
・そのときボサツがいて、徳蔵という名前でした。日月燈明仏は、そこでそのボサツに将来必ず仏と成るであろうという予言をして、多くのビクにつぎのように告げました。
『この徳蔵ボサツは、次の世には必ず仏となるに違いない。その号を浄身如来・聖者・完全無欠な仏陀というであろう』
・仏は(このように)将来必ず仏と成るとの予言をしおわって、すぐにその夜半に、完全なニルヴァーナに入られました。
・この日月燈明仏が入滅して彼岸に渡られてのちに、妙光ボサツは、『妙法蓮華経』を保持して、八十小劫のあいだ中ずっと、ひとびとのために演説しました。
・日月燈明仏の八人の王子は、みな妙光を先生とし、妙光はかれらを教化して、かれらを最高の完全なさとりに堅固に結びつけました。この多くの王子は、数え切れない百千万億の仏を供養しおわって、みな仏道を成就しました。
・(かれらのなかで)その最後に仏となったものが燃燈という名前でした。かれら八百人の弟子なかに一人がおり、号を求名といいました。利得をむさぼり執着し、また多くの経典を読誦しても、その内容に通達せずに、忘れて失ってしまうところが多いところから、求名という号がつけられたのでした。このひとはまた、多くの善根を植えつけていた因縁があったことから、数えられない百千万億の多くの仏にお会いすることができて、その仏たちに供養し、敬い重んじ、尊敬し、讃歎しました。


・弥勒よ。まさに知るべきであります。そのときの妙光ボサツというのは、実はわたくしの身がすなわちこれ、その妙光ボサツだったのです。
・そして求名ボサツというのは、あなたの身がすなわちこれ、求名ボサツなのです。
・いまここにあらわれた前兆を見ると、本来のありかたと異なるところはありません。それゆえ、今日の如来もまさしく大乗経(典)の『妙法蓮華経』を説かれるでしょう。この大乗経はボサツを教える法であり、仏に護り念ぜられるものと名づけられる経典です。