梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「病む」ということ・2

〈最近は、腰痛が拡大して、「歩行困難」になった。なぜか。まだ若いつもりで「歩き回った」からである。自業自得、私の身体が「しっぺ返し」をしたのである。「いい気になるな、おまえは見境もなく生き続け、十分に老いたのだ。もう昔のように自由にはさせないぞ。身の程をわきまえろ!」という声が聞こえる。でも、止まることはできない。一歩進むたびに激痛が走る。杖が欲しい。しかし、ソロソロと「ゆっくり」歩けば、痛みは減る。階段を避けエレベーターを使えば、昇降も可能だ。まだ当分は、外出・移動ができるかもしれない。不便・不自由に耐え、辛抱に徹する。「病む」とはそういうことなのである。(2018.3.19)〉
 上の症状は「脊柱管狭窄症(神経根型)」による「間欠跛行」というものである。私の「病」はそれだけに止まらなかった。(おそらくそれが引き金となって)およそ3カ月後に「急性心筋梗塞」を発症、かろうじて一命をとりとめたが、4カ月後の現在も「療養生活」を強いられている。療養生活は、0歳レベル(新生児)の段階からスタートし、1歳レベルで退院、現在は2歳レベルというところか。活動は屋内に限られており、外出は通院時(ほとんどタクシー利用)のみである。たまに30分程度、近所に買い物をすることもあるが、後が怖い。「息切れ」「呼吸困難」「吐き気」「倦怠感」「脱力感」が突如として襲ってくる。そのたびに、血圧、脈拍、体温を測り、経口補水液を飲んで横になる。室温は25度前後に設定、モーツアルトのCDを聴いて1時間弱安静にすると、不快感が徐々に薄れていく。そのことの「繰り返し」である。まことに心もとない。「風前の灯火」といおうか、カウントダウンの人生を実感している。不便・不自由に耐え、辛抱に徹するだけではない。いつ来るともわからない「死」の入口に立っている。「病む」とはそういうことである。(2018.8.2)