梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「死ぬ」ということ・1

 「老い」て「病む」と「死」が待っている。50歳台の中半に「大腸ポリープ切除」、後半に「無症候性脳梗塞」、60歳台前半に「前立腺肥大」(前立腺炎)、中半に「乾皮症」になり、通院治療を続けてきた。そこまではまだ「死」の実感はわかなかったが、70歳台に入ってから、畳みかけるように「高血圧症」「脊柱管狭窄症」「急性心筋梗塞」を患い、いやでも「死」と向かい合わざるを得ない状態が続いている。
 他人(三人称)の死、身内(二人称)の死について「語る」ことはできるが、自分(一人称)の死については「語れない」。当の本人が絶命しているからである。だから、今のうちに語っておこう。
 私が生まれたのは今から70余年前、満州の地だったが、母はまもなく(4ヶ月後)他界した。父も応召、私は父の友人夫妻に預けられ、夫妻の息子3人と共に引き揚げの途についた。最年少の息子と私は同年齢ということもあり、夫妻は快くその仕事を引き受けてくれたのだが・・・。無蓋車を乗り継ぐ帰還の旅は苛酷を極め、引き揚げ船の中で、私と同年齢の夫妻の息子は落命したという。いわば、私の「生」は、尊い(夫妻親子の)犠牲の上に成り立っているのだ。私が生き延びるために、夫妻はわが子を犠牲にしたのである。にもかかわらず、私には感謝のかけらもない。全く罰当たりな存在であったし、今もそうである。したがって、私という人間には何の価値もない。塵芥と同じである。他人の死、身内の死に遭遇しても平然としている。(幼い子どもの虐待死、事故死、遭難、自己犠牲を遂げた成人の死には、涙が止まらないが・・・。)だから、私は自分の死を、他人の死と同様に、平然と受け入れなければならないのである。「ジタバタするな、アタフタするな。おまえには何の価値もないのだから・・・。おまえが死んでも誰も困らない。おまえが死んでも何も変わらない。」という声が聞こえる。もし私の死が役立つとすれば、「献体」以外にない。せめてもの償いとして遺言に残したい。(2018.7.20)