梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「急性心筋梗塞」・《療養生活・1》

 「急性心筋梗塞」のカテーテル手術で入院10日、退院後12日目を迎えた。入院中は、「退院さえすれば元の生活に戻れる」と思っていたが、そうは問屋が卸さない。私はまだパジャマ姿でいる。いざというとき、すぐ救急車に乗れるように、また、いつでもベッドで横になれるように、という理由からである。朝起きると、すぐに体重と血圧、体温を測る。朝食(トースト、スクランブルエッグ、レタス、トマト、コーヒー)に食欲はわかないが、服薬のために無理にでも食べなければならない。循環器内科の薬7種類、泌尿器科の薬3種類を飲む。脱力感、倦怠感はつねに感じており、時折、「胸騒ぎ」的な緊張感(息苦しさ)にも襲われる。ベッドに向かい、横になってCD(モーツアルト・「音楽療法」・脳梗塞、心筋梗塞用)を聴くと、体調は少しずつ落ち着く。1時間ほど休憩後、デスクに向かい「作文」をする。曾野綾子は、毎日御飯を食べるように「作文」する、というような話をどこかでしていたようだが、私も同様である。一方、大西巨人は、毎日御飯を食べるように「読書」をする(おそらくしただろう、ということが彼の作品群から推察できる)。珠玉の名編「娃重島情死行」に登場する老夫婦は、自死を決行する当日まで「読書」を怠らなかったことが記されている。
 ところで「作文」と「読書」では、どちらが大切か。いうまでもなく、「読書」である。「作文」は自我の表現であり、自己顕示欲の産物である。要するに、未熟でわがままな人間が、途方もない荒唐無稽な自己主張(無駄話)を繰り返しているに過ぎない。一方、「読書」は、他者を敬い、相手の表現を受け入れ、学ぼうとする謙虚な「生き様」を象徴する。 私は、事ここに至っても、まだ「作文」にこだわっている。そのことで「情緒の安定」を図っているようだが、まことに恥ずかしい。私の「作文」の読者は、私自身である。もはや、他者から学ぼうとする気持ちなどさらさらなく、身勝手で無為なエネルギーを費やして「悦に入って」いるのである。
 でも、今は「療養生活」の真っ最中、このままで終わるか、辛くも「復帰」を果たせるかの瀬戸際であり、正念場であることを覚悟しなければならない。
(2018.7.16)