梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・49

第四章 意味論
一 意味の本質
 意味は音声と同様に、一般には言語の構成要素の一つと考えられている。意味を理解することは、音声形式によって、それに対応する表象・概念を喚起することだと考えられているが、音声によって喚起されるものは、心的表象、概念、具体的事物であって、それは言語表現の素材に過ぎない。
言語の意味とは、素材に対する言語主体の把握の仕方であると私は考える。言語は、写真が物をそのまま写すように、素材をそのまま表現するのではなく、素材に対する言語主体の把握の仕方を表現し、それによって聞き手に素材を喚起させようとするのである。絵画の表そうとするものも同様に、素材そのものではなく、素材に対する画家の把握の仕方である。意味の本質は、素材に対する把握の仕方すなわち客体に対する主体の意味作用そのものでなければならない。
 本居宣長が
● 凡て同じ物も指すさまによりて名のかはる類多し(本居宣長「古事記伝」)。
 と、いった場合、「同じ物」とは素材に対する観察的立場についていったことであり、「指すさま」とは、その素材に対する主体的立場における把握の仕方についていったと解すべきである。語は同一事物に対する把握の仕方の相違を表現することによって異なった語となるという意味である。また「指すさま」が同じであれば、異なった事物をも同じ語によって表現される。山で遊んで昼食を取ろうとして、傍らの石を指さし「このテーブルの上で食べましょう」ともいえる。疲れた山道で一本の木の枝を折って「いい杖ができた」ともいえるのである。
● 天の原ふりさけ見れば白真弓張りてかけたり夜路はよけむ(「万葉集」)
 この「白真弓」の素材は月だが、月に対する話し手の把握の仕方によって、「白真弓」という語で表現されたので、そこに作者の素材に対する意味作用が、単に「月」と表現した場合と異なるものを聴取できるのである。 
● いなごは、せまい囲いの中から外へはひ出そうとする。「この牛は、しょうがないぞ」と大きな声で、弟がひとりごとを言ふ。弟は牛を飼っているつもりなのである(「小学読本」)
 「牛」という語が「いなご」を指しているのだが、指すさまの同じであるために、異なった事物が牛という語によって表現されることとなる。
 以上のように、言語において意味を理解することは、言語によって喚起される事物や表象を受容することではなく、主体の、事物や表象に対する捉え方を理解することとなる。そのような捉え方を理解することが、我々に事物や表象を喚起させることになるのである。言語が単に事物や表象の記号であって、意味作用の表現でなかったならば、言語は今日のような表現能力を持てなかったかもしれない。事物の数に相当するだけの語が必要とされたかもわからないのである。
【感想】
 言語の意味とは、一般に、音声に対応する事物、表象、概念のことだと考えられてるが、著者によれば、それらは言語の素材に過ぎない、その素材を言語主体がどのように把握しているか、その意味作用そのものが意味の本質であるということである。なるほど、山の石をテーブル、木の枝を杖に見立てて表現する時、話し手は「石をテーブル、枝を杖だと思っている」ということを理解することが、テーブル、杖の意味を理解することだということがよくわかった。石は石であっても、枝は枝であっても、言語表現においてはテーブルや杖になり得る、ということが言語の意味作用であり、それが表現能力を豊かにする。また、聞き手(読み手)においては、表現されたテーブル、杖という語をそのまま受容しただけでは、話し手の意図を正しく理解することはできないということもよくわかった。(2017.11.19)