梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

学校は何のためにあるか

 学校は「人間の生活」を学ぶためにある。「人間の生活」とは何か。それは、母親(またはそれに代わる人)と一緒にいることから始まる。多くの場合、「抱かれる」「背負われる」という形で、母親と直接的に触れ合いながら、互いに「生きていること」を感じ合うことから始まる。その時、母親も子どもも「快感」を感じていなければならない。そうすることがとても楽しく感じられるようでなければならい。だから母親は子どもを「肌身離さず」の状態にしておくのである。何かの都合でそのような状態が保たれなくなったとき、子どもは泣いて母親を呼ぶ。これが人間のコミュニケ-ションの第一歩である。母親と接触していることが「快感」であり、母親と離れることが「不快」(不安)であると感じる感覚をもつこと、これが「人間の生活」の第一歩である。 子どもは母親と一緒にいながら、母親のしていることをマネしようとする。しかし思うようにはできない。そこで母親に助けを求める。ある時は泣いて、ある時は怒って、ある時は指をさして、そしてある時はコトバを使って助けを求める。母親は無条件に応じる。子どもは、自分でできないことを母親の力を借りてできるようになる。そしてその楽しさを知る。母親に対する「信頼感」を感じる。これが「人間の生活」の第二歩である。
 やがて子どもは、自分のしたいこと(周囲の人のしていること)を自分の力でやりたがる。そしてできるようになる。自分の力でできたことに大きな喜びを感じる。自分のすることが自分のためになることを知り、充実感(成功感)でいっぱいになる。もう母親の手を借りようとはしない。これが「人間の生活」の第三歩である。 さらに子どもは、それだけでは満足しない。自分のすることが他人のためになることを知り、その充実感(使命感)の方がより楽しいものに感じるようになる。自分のすることを他人が喜ぶ、その姿を見てうれしいと感じるようになる。子どもがお手伝いをするのは報酬を得るためではない。母親が喜ぶ姿を見たいからである。子どもが万引きをしないのは罰せられるからではない。母親が悲しむのを見たくないからである。「名誉や栄光のためではなく」人間は生きるのである。これが「人間の生活」の第四歩である。       学校は「人間の生活」を学ぶためにある。前述した母親を教師に、他人を級友に置き換えれば、家庭であっても学校であっても「人間の生活」を学ぶことに変わりはないのである。「国語」「算数」「社会」「理科」などといった各教科の学習は、「人間の生活」を学ぶための素材であって、内容ではない。むしろ「道徳」「特別活動」といった領域の学習こそが「人間の生活」の内容なのである。                    
 <事例・1>
 ある小学校で入学式が行われた後、一人の母親が担任のところへやってきてこう言った。「先生、うちの子どものことをもうご存じと思いますが、何とぞよろしくお願いいたします。手が不自由なのです。」担任は、学年の教師との話し合いの中で、その子の名前や手の指の数が足りないことについて知っていたので、「ハイ、わかりました。」と答えた。
 その子の様子をみると、とても明るく素直でのびのびと行動しており、指のことなど全く気にしていないように見受けられた。学級の生活が始まって一週間が過ぎた。幼稚園からの資料によると、その子の指は「右手が一本欠損している」とのことだったが、担任はそれをたしかめるのがこわいような気がした。授業中に机間巡視しながらそれとなく様子を見ると、二本欠損していることがわかった。学級では出席をとるとき呼名されて挙手することになっている。その子は何の抵抗もなく「ハイ」と答えて三本指の右手を挙げる。「しかし・・・」と担任は思った。「このままにしてよいだろうか。今は、クラスの子どもたちは気づいていないかもしれない。でもいずれはわかるときがくるだろう。クラスの子どもたちだけではなく、他のクラスや他の学年の子どもたちにも知れわたってしまうかもしれない。三本しか指がないことはそのこと自体としてはどうということはない。しかし、そのことで他の子どもから好奇の目で見られたり、からかわれたり、いじめられたりしたらどうすればよいか。その子の指が三本しかないことを、どのようにしてクラスの子どもたちに知らせ、そのことが何ら問題とすべきではないことをどのように理解させればよいのだろう。」
 担任は「どうすればよいか」学年主任に相談した。学年主任は、自分だけでは判断できないと言って教務主任、教頭、校長に相談した。教務主任は「担任は学級の子どもたちにそのことをはっきりと知らせ、からかったり、いじめたりしてはいけないことを教えるのがよい。また、教職員全員にもそのことを知らせ、しかるべき指導を事前にしておいた方がよい。」と判断した。校長は「その方法はとてもむずかしい。今は誰も気づいていないし、その子自身も明るい性格なので、その場その場で個別に対応していく方がよいのではないか。事前に指導することは、寝た子を起こすことにもなりかねない。」と判断した。その結果、しばらく様子を見ることになった。
 数日後、担任はクラスの子どもたちが、その子の指のことに気づきはじめている場面を目撃した。「あれ、どうして指が三本しかないの?」という問いかけに、その子は「小さいときにケガをしたから」と答えたり、しつこく聞かれたときのは「いいの」と答えたりしていた。
 担任は再び校長に相談した。「クラスの子どもたちは気づきはじめています。担任としてはこのままにしておくことは不安なので、家庭訪問をして保護者の判断をあおぎたいと思います。」校長は承諾した。担任は家庭訪問をして両親にどうすればよいか判断を求めた。両親は、家庭訪問をしてくれたことを非常に感謝し、「他のお子さんが不思議に思うことは当然です。どうすればよいかは先生の判断におまかせしますので、よろしくお願いいたします。」担任、はその結果を校長に報告した。校長は翌日、教職員全員にその子の様子について知らせ、その子のことでトラブルが生じないよう配慮してもらいたいと要望した。
 担任は再び家庭訪問し、その子自身と指のことについて話し合った。クラスの友だちから指のことを聞かれいちいち答えるのは大変だから先生がみんなに話してあげようかと言うと、その子は「どっちでもよい」と答えた。
 その後、担任はそのことについて何もしないて、様子を見ている。現在まで特別な問題は生じていない。その子は、算数の引算の学習で「8ひく5」をするとき、両手を挙げてみんなに見せ「ボクの指ちょうどいいよ、ホラ。」と言った。みんなは「ア、本当だ。」と言ってうなづき、ほほえんだ。体育の「のぼりぼう」では、はじめすぐに落ちてしまったが、現在では一番上まで登ることができるようになった。「雲梯」は、今でもすぐに落ちてしまうが「ボク、得意じゃないんだ。」と言って屈託がない。母親は、音楽で使う「たて笛」を特別に業者に注文している。
 担任は、その子の指のことがほとんど気にならなくなった。今では、そのことが全くあたりまえのことであり、自然な気持ちで教室に入れるようになっている。しかし、自分の見ていない場面や、今後のことになるとどうなのか「不安」がないわけではない。。


 <事例・2>
 「母の日」が近づくと学校では赤いカ-ネ-ションが配られる。ある学級では父子家庭の子がいた。担任は、その子にカ-ネ-ションを配っていいのか、配るとすれば何と言って配ればいいのか「不安」になり、学年主任に相談した。学年主任はどうすればよいか、児童会担当、教頭、校長と話し合った。児童会担当は、一律に配り、父子家庭の子どもに対しては「母親がいなくても試練に耐えなくてはならない。世の中で母の日をなくすわけにはいかないのだから。」ということを話せばよいと主張した。担任は、カ-ネ-ションに「お母さん、ありがとう」という言葉が添えてあるので、その子がさびしい思いをするのではないか、自分だけがみんなとは違う感じてしまうのではないか、という「不安」があると言った。児童会担当は「その子ひとりのために母の日をなくすわけにはいかない。体の不自由な子がいるから運動会をなくすわけにはいかないのと同じだ。」と主張した。どうすればよいか、なかなか考えがまとまらず、「カ-ネ-ションの言葉を書き変えればよい」「カ-ネ-ションの言葉を切り取って配ればよい」「カ-ネ-ションを配るだけで胸につけさせなければよい」などという意見も出された。教頭は「昔は、父子家庭の子には白いカ-ネ-ションを配ったこともあった。昔よりも今の方がよいのではないか。」と言った。話し合いは平行線のまま終わった。
 担任はかつて父子家庭の子どもにカ-ネ-ションを配ったとき、その子がカ-ネ-ションを持ってきて、「先生、ボクお母さんいないから、この言葉を、おばあちゃんありがとうと書きかえてよ。」と言ったことが忘れられなかった。そのときは忙しさのまぎれて、そのまま渡してしまったことを後悔していた。だから、児童会担当の主張を受け容れる気持ちにはなれなかった。
 翌日(カ-ネ-ションを配る日)、校長は全教職員に次のように話した。
 「今日、母の日のカ-ネ-ションを配ることになっています。お母さんのいない子もいるので、配り方をいろいろ考えてください。ただ一律に配ってしまうのも一つの方法です。またその子に対しては、言葉の部分をふだんお世話になっている人の名前に変えて配る方法もあります。家庭に対しては、母の日の趣旨を説明し理解を求める手紙を添えることも考えられます。父子家庭に限らず、子どもひとりひとりの問題にいつも気を配り、それぞれに対応した配慮ができるよう心がけてください。」
 担任は、カ-ネ-ションの言葉の部分を書き変え、手紙を添えて、その子に配った。しかし、どうしても胸につけさせることはできなかった。
 児童会担当は、担任のところへ来てこう言った。「私の考えは間違っていたようです。母親がいなくても試練に耐えなくてはならない、というのは単純な理屈であって、子どもには理解できないということがわかりました。」(2002.7.31)