梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「死ぬ」ということ・2

 「死んで花実が咲くものか」と言うとおり、生きていることが《すべて》である。「輪廻転生」といって「死んであの世に還った霊魂(魂)が、この世に何度も生まれ変わってくる」、つまり、《生まれ変わり、死に変わり》という営みが《すべて》だという考えもあるが、私は信じない。死ねばすべてが終わり、無に帰する。生まれ変われるのは、生きている者に限られる。死者は永遠に死者である。魂も存在しない。たとえば「幽体離脱」、たとえば「三途の川」、たとえば「彼岸」、たとえば「閻魔大王」、たとえば「地獄」、たとえば「極楽浄土」、そして「復活」、以上のすべては生者の虚構に過ぎない。「冥福」(死後の幸福)などあり得ないのに、誰もが「謹んでご冥福をお祈りします」などという言辞を平気で弄している。ただし、これはあくまで信仰の問題だから、信じる、信じないは「カラス(各自)の勝手」だが・・・・。
 古代よりピラミッド、古墳など、「死」を拒絶し、永遠に生き続けようとした先人の努力は、見事に裏切られている。死者は無力である。できることは「息の根を止める」ことだけで、もう自力で「棺」に入ることはできない。死後の一切を始末するのは、生者であることを肝銘しなければならないのである。
 亡骸は荼毘に付し骨灰となる。そのことですべてが終わり、無に帰するのである。骨灰をどのように扱うかも「自由」だが、私の骨など何の価値もないと思うので、塵芥同様に処分されてもかまわない。戒名を授かり墓所に納められるよりは、跡形なく、大気中、海中、山中などにまき散らされた方が、どれだけ気楽になれるだろう。などと、妄想をしているが、それらも生者の戯言に過ぎない。一度死んだら、二度と再び生き返る(生まれ変わる)ことはないのだ。「死ぬ」とはそういうことである。(2018.7.28)