梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

大衆演劇・劇団素描「劇団京弥」(座長・白富士一馬)

【劇団京弥】(座長・白富士一馬)〈平成24年12月公演・みのりの湯柏健康センター〉
昼の部、芝居の外題は、御存知「喧嘩屋五郎兵衛」。大衆演劇の定番で、どこの劇団でも演じる演目だが、この劇団の景色は他を凌駕している。本日は、座長不在(「劇団千章」の応援)のため、主役・喧嘩屋五郎兵衛は副座長・白富士健太、その姉・胡蝶つき子、縁談話を持ち込んできた出入り商人(八百屋の藤助)・若座長・白富士龍太、一家にわらじを脱いだ旅鴉・白富士洸、越後屋の娘・白富士つばさ、という配役であったが、その出来映えは、座長在時と比べて遜色ない。それというのも、五郎兵衛の姉(女親分)を演じた胡蝶つき子の「貫禄」が、群を抜いていたからである。その立ち居、振る舞いは、寸分の隙もなく、登場しただけで舞台全体の空気がキリリと引き締まる。今や、彼女は斯界女優陣の「第一人者」と言っても過言ではないだろう。五郎兵衛役の健太、藤助役の龍太も素晴らしい。主役、相手役でありながら、演技は「控えめ」、五郎兵衛の「清々しさ」に、藤助の「渋さ」も加わって、見応えのある舞台に仕上がっていた。誰一人として悪人はいない、ちょっとした「勘違い」、しかし、譲るわけにはいかない意地と意地との葛藤が生んだ「悲劇」とでもいえようか。姉を救おうとして負った火傷、その顔を看板に「男」になった五郎兵衛が、再び姉の刃で絶命する。「こうする他はなかったんだ」と呟く姉の表情に、心なしか「動揺」も垣間見え、大詰めの場面は舞台・客席ともに「凍り付いた」空気が漂う。要するに、旅鴉を許せない五郎兵衛の煩悩、その五郎兵衛を、煩悩から救うために「殺さざるをえない」姉の苦悩が結実化した名場面であった、と私は思う。夜の部、芝居の外題は「源太郎街道」。一家親分をだまし討ちされ、敵を討とうとしたが失敗、今は盲目となって兄貴・源太郎(白富士健太)の帰りを待つ、新二郎(白富士洸)の物語である。一家はちりじり、ただ一人、不自由な長屋暮らしを
しているが、大家の娘・おふく(白富士きよと)が何かと面倒を見てくれる。そんな折、待ちに待った源太郎が帰ってきた。新二郎いわく「俺は目が見えねえ、おふくちゃんと所帯をもちたいが、どんな顔をしているか、おめえ見てくれねえか」。源太郎、おふくの顔を見て驚嘆、「ぬかるみでぼた餅をふみつぶしたような顔だぜ」、新二郎「じゃあ、おめえ、追い出してくれ」、源太郎、体よく追い出したまではよかったが、食い物がない。 馴染みの寿司屋に出かけていった。その留守に敵役一家・権九郎(白富士龍太)の子分(白富士真之介)が登場、「源太郎はいねえか」と言いつつ、新二郎に一太刀浴びせて帰って行った。新二郎、「畜生、兄貴も帰ってきたことだし、もう思い残すことはねえ。俺が親分の敵を討つんだ」と、止めるおふくを振り払って、駆けだしていく。そこに帰ってきたのが泥酔状態の源太郎。おふく「大変だよ、新さんが敵を討つといって、出て行ってしまった」。その一言に源太郎、(途端に)酔いはさめたが片足が動かない。おふくが差し出す赤布で(片足を)縛りあげ、「新二郎、待ってろよ。俺もすぐにいくからな」といった展開だが・・・。私が目を見張ったのは、おふくを演じた白富士きよと。彼はまだ(おそらく)十六・七歳。その姿・形からして、誰あろう、あの大月聖也であったのだ。父・大月瑠也とともに「劇団翔龍」に居たが、いつのまにやら父が脱け、彼もまた(私にとっては)「行方不明」状態に。今、こんなところで、聖也に巡り会えようとは、「お釈迦様でも気がつくめえ」という心持ちであった。それにしても、変われば変わるもの、白富士きよとの「おふく」は、可愛らしく、何とも魅力的であった。まさにこの世は「有為転変」、しかし、斯界のサラブレッド・大月聖也が、白富士きよとに「変化」(へんげ)して修行を積めば、斯界の新しい戦力になることは間違いあるまい。「劇団京弥」に、その種は蒔かれた。後は開花を待つだけか、今日もまた、心うきうき、大きな元気を頂いて帰路に就いた次第である。
(2012.12.20)