梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

大衆演劇・幕間閑話・「常連」と「贔屓」

 大衆演劇評論家・橋本正樹氏は、「大衆演劇『公式』情報サイト・0481.JP」・《演劇の楽しみ方》の中で、「ファン気質」について以下のように述べている。〈大衆演劇のファンは、女性が八割を占める。近年若い女性も増えてはいるが、それでも中年以上の女性が圧倒的に多い。そのファンたちだが、ヘルスセンターに行く団体客を除外すると、次の二つに分類される。一つは、公演にくる一座を満遍なく見ている常連客だ。小屋の周辺に住む人が多く、芝居通といえる。役者の巧拙を見る目が確かであり、ストーリーに即して主人公の心情を我が事のように受け止めて、泣き、笑い、拍手し、舞台を十分に堪能する。常連が舞台そのもののファンであるのに対し、役者個人を応援するのが贔屓客である。劇団を全面的に援助する後援者と、ファンクラブの会員とに分けられるが、いずれにしろ熱狂的な贔屓となると、一座が巡業する先々まで追いかけ、一万円札を貼り付けたりする。三吉演芸場は、芝居好きの常連客に支えられている常打ちの小屋だと、僕は見ている。〉したがって、ひとくちにファンと言っても、「常連」と「贔屓」では、「楽しみ方」が異なるわけだが、楽しむ内容は「共通」または「一致」している、と私は思う。要するに、彼らは、劇団員(役者)との「出会い」を楽しんでいるのだ。芝居や舞踊の舞台景色は「二の次」にして、「握手をした」「会話をした」「プレゼントをした」「茶・会食をした」等々、役者が舞台を降りてからの「交流」(逢瀬)を楽しむのである。当日の舞台は、その「導入」に過ぎない。結果、開幕前には「開演中は、他のお客様の御迷惑にならぬよう、お静かに観劇くださいますようお願い申し上げます」等といった、「言わずもがな」のアナウンスが繰り返されることになるのだろう。しかし、中高年の女性が八割を占める客席は、そんなことにはお構いなし、どこ吹く風と聞き流す。そこで、劇団にも意地がある。開幕直前には、音響のボリュームをいっぱいに上げ、ざわついている客席に向かって「静かにしないか!」と言う無言のメッセージを送る羽目になるのではあるまいか。それはともかく、「常連」「贔屓」の共通点は「出会い」を楽しむだけに留まらない。彼らは、一様に「馴れ馴れしい」、「親密」といえば聞こえはいいが、つまりは「優位に立って」、役者連中を「見下している」気配が窺われる。まさに「贔屓の引き倒し」といった按配であろうか。斯界の雑誌「演劇グラフ」初代編集長・上松ミナ氏は「大衆演劇こぼれ話」というブログで、(いみじくも)以下のように綴っている。〈一つの劇団や一人の役者さんを、ずっと長く応援し続ける。そんなファンはどうしても、まるで親戚のおばちゃん(もしくはおじちゃん)のようになってゆく。そうすると段々、「観劇イコール舞台を楽しむこと」だけではなくなってしまう。幕が開くと、「みんな元気かな?」と、舞台上の座員さんたちの様子をチェック。もし元気のない子がいたら、送り出しでドリンクの1本でも手渡しながら「頑張りや」と肩をたたく。子役さんのヨチヨチ歩くだけの踊りにも、手が痛くなるほどの拍手を送る。大衆演劇らしい、人情味あふれるシーンだ。しかし、これが一歩間違えると困ったことになりかねないのだ。我が子を溺愛する母親のような、甘々な盲愛ファンに変貌してしまうと…。もう、何でもオッケー!やる気がなくて愛想が悪かろうが十年一日のごときマンネリ芝居でお茶を濁そうが客入りの悪さを口上挨拶で愚痴ろうが大好きな役者の言うこと、することは一切否定しない。そればかりか「○○さん、さすが!」「今日も最高です!」と持ち上げ、褒めて褒めて褒めまくる。誰だって褒められるのは好き、けなされるのは嫌だから、○○さんの周りは熱烈ファンで固められ、裸の王様状態になっていく。そういうのは褒め殺しって言うんだけどな。本当は、一番残酷な足の引っ張り方なんだけどな〉。おっしゃるとおり!(私も全く同感である)。その端的な事例は、「舞踊ショー」の舞台、御贔屓の役者に「花を付ける」場面で現れる。まだ舞踊が終わらないうちに、あるいはこれからという時に、彼らは「堂々と」舞台の最前列まで歩み寄り、「容赦なく」役者を「呼び寄せ」、その胸元に万札を貼り付けるのだ。役者も役者、扇子を投げ出して「はせ参じる」、それが可愛いといって拍手大喝采・・・、といった光景が日常化している昨今だが、舞台は二の次、役者と「贔屓」の交流が最優先されている証しといえよう。(私の独断と偏見によれば))大衆演劇の世界では、観客の方が「強い」のだ。(すべてとは言わないが)「常連」も「贔屓」も、役者より自分の方が「エライ」と思っているに違いない。加えて、各劇団には、時として、寄生虫のような「2チャンネル」情報も襲来する。その「裏舞台」では、役者の誰もが「不純」で「不健全」なアウトロー役を演じさせられてしまう。つまり、情報提供者は、役者を「人並み以下」の「人非人」と決めつけることで、むなしい「優越感」を味わいたいのだろうが、それは「天に向かって唾を吐く」ことに他ならない、と私は思う。とまれ、各劇団の役者連中は、そうした(いわれのない)「人権侵害」(蔑視・白眼視)を甘受しながら、今日もまた(表舞台では)「至芸」の数々を演じ続けていると思うと、私の(くやし)涙は止まらない。(2012.4.5)