梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

大衆演劇・幕間閑話・「音響」

   大衆演劇の音響は、つねに「大音響」であることが特徴である。役者の条件は「一声、二振り(顔)、三姿」といわれているが、その「一声」を描出すべき「音響効果」に、致命的な問題が生じている、と私は思う。芝居に登場する役者の面々は、一様に「ピンマイク」を装用している。観客数は多くて200人程度、通常は数十人ほどなのに・・・。その結果、役者のセリフは、つねに同一のスピーカーから聞こえてくる。舞台の景色は、テレビ画面と同様に、「奥行き」が感じられない。役者の位置によっては、けたたましいハウリングに見舞われるといった有様で、なんとも無惨な状景を招いてしまうのだ。衣装・化粧には、相当の気配りをしているのに、音響効果に関してはどの劇団も無頓着すぎないか。(一時期、「近江飛龍劇団」「劇団桐龍座・恋川純弥劇団」がピンマイクをはずし、珠玉の舞台を展開したが、最近では「元の木阿弥」になってしまった。「剣戟はる駒座」では、いちはやく舞台に「集音マイク」を設置し、この問題解決を図ったが、今も続いているだろうか)また、舞踊・歌謡ショーで流される音曲のボリュームも、耳をつんざくような大きさで、マスキング(耳栓)が不可欠となる。パチンコ店内、右翼街宣車、選挙運動スピーカー、等々に比べても、大差はない。ディスコダンス・ライブを模しているのかもしれないが、客筋の8割を中高年女性が占めている現状では、いささか「場違い」ではないだろうか。・・・・、(と思ったが)いや、そうではない。むしろ、だからこそ、「大音響」が必要であることに、今、気がついた。つまり、「大音響」という惨状を招いているのは、劇団ではなく、客筋の方に問題があるのではないか。私の独断と偏見によれば、開幕直前まで、客席はざわついている。幕が開き、芝居が始まっても客席はざわついている。お目当ての役者(多くの場合、座長)が登場して、はじめて舞台に注目する、といった按配で、だとすれば、必要以上の「音量」で客の視線を集めようとする目論見は、至極もっともな話である。「音がした方を振り向く」という行為は、人間の生理的現象(反射)なのだから。客席がうるさければうるさいほど、それ以上の「音量」で客を惹きつける他はない。したがって、件の「大音響」は、いわば、(お静かにという)「警報サイレン」に他ならないのである。とはいえ、その目論見(手法)は、悲しすぎないか。落語、講談、浪曲など「大衆演芸」の(かつての)名人たちは、冒頭、必要以下の(聞こえにくい)「音量」(声)で「語り始めた」という。それに応えて、往時の観客たちも、耳を澄まして注目する。その「阿吽の呼吸」こそが「至芸」の源泉になったのだから・・・。以下は、私の妄言だが、有力な「劇団」は、つねに「客席」を満たさない(「大入り」(採算)など歯牙にもかけず、客筋との「呼吸」を大切にする)。観客が少なければ少ないほど、客席は静まり、舞台の景色が映える(舞台での精進を重ねることができる)からである。10人に満たない観客の前で、今日もまた「国宝(無形文化財)級」の名舞台が展開しているに違いない。そこでは、もはや「大音響」は不要、私の耳栓も「出番はない」であろう。「ピンマイク」「ハウリング」「大音響」といった、およそ舞台芸術とは無縁の代物が「大手を振っている」限り、「大衆演劇」の実力は向上しない。しかも、その要因は、「劇団」の側ではなく、観客(大衆)自身が招いていることを肝銘しなければならない、と私は思う。(2012.4.9)