梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「高群逸枝全集 第一巻 母系制の研究」(理論社・1966年)通読・29

《其一石城国造》
【要点】
 陸奥の石城氏は、天津彦根命の後裔と称している。しかし、常陸風土多珂郡條記に「古老曰、斯我高穴穂宮大八州照臨天皇之世、以建御狭日命任多珂国造、茲人初至、歴験地体以為峰剣岳崇因名多珂之国、建御狭日命当所遣時以久慈堺之助河為道前、陸奥国石城郡苦麻之村、為道後其後至難波長柄豊前大宮臨軒天皇之世、癸丑年、多珂国造石城直美夜部、石城評造部志許赤等、請甲惣領高向太夫以所部遠隔、往来不便分置多珂石城二郡」とあって出雲臣同族とも称する。次に承和7年3月紀では、臣姓の石城国造氏が見えているが、承和11年正月紀によれば阿倍氏系である。また、記神武段、神護景雲3年3月紀を見れば、多氏系でもある。これによれば、石城国造は、天津彦根命、天穂日命、大彦命、神八井耳命の四祖を並存している。
 石城国造は、前掲風土記によって想像すれば、その前身は多珂国内の石城国造であったと思われる。その評造が多珂国造の系を得て、石城直を名乗るに至り、評造である一方、多珂国造の職にも参与することとなり、ここに多珂国造の元系は、天津彦根命(建許呂命)の後であると思われるので、石城氏もまた同様に同命の後と称するに至った。石城国造の出自、成務御字建許呂命云々というのは、その実、多珂国造の出自であったのを転移したものであろう。風土記によれば、いまだ成務御字には石城国造は存在しなかった。茨城、師長、須惠、馬久田、菊多、岐○、石背等の近隣諸国も、すべて同系を称しているが、おそらく石城氏と同様の経過による祖変であろう。
 その後、同系の中心であろうと思われる多珂国造に祖変が起こり、出雲系を称するに至ったが、この系は当時すこぶる勢力があって、さかんに近隣の大小国造群を自族下に席捲している武蔵国造よりもたらされたものと思われる。多珂国造の祖変は石城氏にも及び、石城氏はここに出雲臣同族を称する。第三の出自阿倍系は、東北に威を振るった大族阿倍氏の触手を亨けたものであることは、想像に難くない。第四の出自多氏系も、常陸の仲国造を本拠として、海道に繁延した大族である。かくて石城氏は、これら四圍の大国造群との接触によって、多祖現象を生じたものに違いない。
 石城氏のより古い元系を求むるならば、蝦夷部曲であったろうことは、丈部山際に於保磐城臣を賜うと見えるのによって考えれば、阿倍氏あるいは多氏の部曲であったことが窺われ、また風土記文中、石城評造部志許赤とあるのも、部字の上に、丈あるいは大を説したものと考えられるからである。
 要するに、蝦夷母族を基礎としての多祖現象である。


【感想】
 ここでは、石城国造について解説されている。石城はイワキと読み、現在の福島県あたりだと思われるが、私の理解できない語句が目立つ。引用されている漢文はもとより、【多氏】、【評造】、【仲国造】、【部曲】という語句がわからない。これをインターネットで調べると、以下の通りであった。
【多氏】多氏(おおし/おおうじ)は、「多」を氏の名とする氏族。
日本最古の皇別氏族とされる。「太」「大」「意富」「飯富」「於保」とも記され、九州と畿内に系譜を伝える。(「ウィキペディア百科事典」より引用)
【評造】(こおりのみやつこ)評の官職名としては,評造,評督,督領,助督などが知られているが,その官制については必ずしも明らかではなく,評督(長官),助督(次官)の二官制で,評造はその総括名称であったとする説や,二官制は認めた上で,評造は小評の長官名,あるいは国造出身でない評の官人名とする説などがある。評制は,7世紀後半の地方行政制度の整備にともない,国の下の行政単位として全国的に施行され,また評の下には50戸からなる里が置かれ,7世紀末には国評里の地方制度が整った。(「コトバンク」より引用)
【仲国造】 仲国造(なかのくにのみやつこ・なかこくぞう)は常陸国東部を支配した国造。那珂国造・那賀国造・常道仲国造とも。(「ウィキペディア百科事典」より引用)
【部曲】部民とも書く。大和時代 (大化前代) の豪族の私有民。中国で奴婢を意味する。彼らは令制の家人,奴婢とは異なり一定の職業をもち,だいたい村落を単位として豪族に仕え,租税を納め,徭役に従いその隷属する主家の名に「部」の字をつけて名字とした自営の民である。また,各豪族は,別に奴隷を所有していたところからみて,部曲の身分はそれほど低いものではなかったであろう。大化改新後廃止され,天武朝には公民となった。(「コトバンク」より引用)
「石城国造は、天津彦根命、天穂日命、大彦命、神八井耳命の四祖を並存して」おり、蝦夷母族を基礎としているということは分かったが、それ以上のことはわからなかった。
また石城(いわき)は現在の磐城だと思われるが、それは国名(地名)なのか氏名なのかも判然としなかった。(2019.12.30)