梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・40

3 国語教育と言語理論
【要約】
 中学校、高等学校で文法を教えるという、教育の現場からいくつかの問題が提出されている。その一つ二つについて考えてみる。
 その一つは、文法の教育ということをどう理解しどう実践するかという問題である。文法が法則的な学問であり、文法を習うことは公式について勉強することだという公式主義(教条主義)というまちがい出てきがちである。文法を実践の指針として理解し、身につけるのではなく、公式として書かれたものを暗記しにかかるまちがいである。口語の場合には、日常生活の中での実践を科学的に反省し、その法則性を自覚し、今後の実践にとってんの指針とできるが、文語の場合は古典の理解のためにまず法則性について一応の知識を持たなければならないということになり、文法について知るという勉強が重要な意義を持ってくる。こうした条件のちがいを無視して、文法教育を画一的に考えることはまちがいである。
 公式主義とは逆のかたちをとるまちがいは、経験主義とよばれている。学生が自分の経験を反省するように仕向けさえすれば、自分の力で言語についての法則を発見することができ、そこから正しい文法をつくりうるはずだ、という考えかたである。言語現象はきわめて複雑な人間の精神の表現として存在するものであって、経験を整理すれば法則づけられるような単純なものではない。
 その次に問題になっていることは、それぞれの文法学者がちがった学説を立て体系を異にしていて、それが教科書に反映し、説明がくいちがってくるという事実である。(橋本進吉氏の説、時枝誠記氏の説など)これでは困るから一致させてほしいという声もあるようだが、安易な解決は好ましくない。文法を教える教師は、もっと言語に関する理解を深めることが必要である。正しい言語理論を身につけなければ、文法を言語の実践に役立てる正しい方法も出てこないし、文法教育が公式主義、経験主義におちいった場合それを正しく立てなおすことは困難である。現場の教師が、文法の教科書づくり協力する仕事に参加することによって、正しい軌道にのることができるのではないだろうか。


【感想】
 ここでは「国語教育と言語理論」について述べられている。著者は末尾で「文法を教える教師は、もっと言語に関する理解を深めることが必要である」と述べているが、国語教育は小学校の段階が最も重要であると、私は思う。
 「せんせい」と書いて音読させるとき、「センセー」と発音するのが正しく、「センセイ」は誤りである。「りょうしが、てっぽうで、はとを、うとうとしました」「おばあさんが、えんがわで、うとうと しています」の「うとうと」は前者が「ウトート」であり後者は「ウトウト」と音読するのが正しい。「大きい」は「おおきい」であり、「王様」は「おうさま」と書くのが正しい。・・・といった知識は知っていても、それが何故かを児童に説明できる教員は、(今でも)わずかではないだろうか。
 中学年以降の「文章の読解」では、①まずざっと読み(通読)、②次に詳しく読み(精読)、③最後に味わって読む(味読)などという「三読法」が、今も児童を苦しめ「国語嫌い」を助長しているのが現状ではないだろうか。私自身は時枝誠記の「たどり読み法」、大久保忠利の「一読総合法」を取り入れ、子どもたちの学習意欲が倍増したことに驚いた経験がある。
 そして今、私は自閉症児・者に対する「言語指導」を実践するために本書を読み始めたわけだが、彼らに不足しているのは「主体的表現に使われる語」(助詞、助動詞、感動詞、応答詞、接続詞)であると感じている。それらを「教える」のではなく「育てる」ために何が必要か、どんな方法があるかについて検討することが今後の課題である。
 当面は、村田孝次著「幼児の言語発達」(培風館・1968年)の「発声行動の初期発達」から、声による表現が、どのようにして「主体的表現を表す語」に発展していくかについて考えてみたい。著者には、別著「日本語の文法」(勁草書房・1975年)もあるので、余裕があれば読んでみたいと思った、以上で、本書の通読は終了する。
(2018.2.28)