梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・22

第三章 日本語の文法構造・・その二、主体的表現にはどのような語が使われているか
1 助詞のいろいろ
a 助詞の性格
【要約】
 文の中の語と語とはつながりをもつものとして扱われる。このつながりのうしろには、語としてとらえられた対象のそれぞれの面の客観的なつながりがかくれている。
● 人死す。
 「人」と「死す」とは別個の無関係なものではなく、対象においても客観的なつながりをもっていることを聞き手は理解する。
 このような客観的なつながりにはいろいろなちがいがあり、そのとらえかたは同じではない。
(a) 人(が)死ぬ。
(b) 人(は)死ぬ。
 このちがいは、話し手がつながりそのものの性格を特別に意識してとらえた結果ではない。「人」や「死ぬ」に表現された《対象のありかたとらえかたがちがっているときは、助詞を変えるという習慣が身についている》だけのことである。
(a)は目の前の一人の人間の死について話すときの習慣、(b)は人間全体についての必然性を話すときの習慣である。「が」と「は」とは客観的にみれば、対象の関係のちがいに基礎をおいて区別される表現でありながら、話し手はそれを意識することなく対象をとらえるときの一つの習慣として、対象のありかたに従って変わった表現をするという意識で表現しているのである。この意味で、この種の助詞は客体的表現と主体的表現との中間にあるともいえる。
 いま例にあげたのは、格助詞とよばれていものだが、同じ「は」でも格助詞に属するものと係助詞に属するものがあり、同じ「と」や「から」でも格助詞に属するものと接続助詞に属するものがあるというように、一つの形式の語を一つの種類へおさめることができない状態にある。また、いくつかの種類にわけようとしてしらべてみると、どちらへいれたらよいか迷うような、中間にあるようなものが出てくる。このように、固定した境界線はなく、絶対的な区別はできないが、区別するのはまちがっているということにはならない。


【感想】
 ここで述べられていることは、「助詞の性格」である。要するに、助詞には格助詞、接続助詞、副助詞、終助詞、係助詞(文語の場合)などがあるが、それらの間には「固定した境界線はなく、絶対的な区別はできない」ということが、助詞の性格であるということであろう。
 語と語とのつながりのうしろにかくれている、対象の客観的なつながり(のちがい)のとらえかた(のちがい)を助詞が表すということはわかったが、〈対象のありかたとらえかたがちがっているときは、助詞を変えるという習慣が身についている〉の「習慣が身についている」、さらに〈「が」と「は」とは客観的にみれば、対象の関係のちがいに基礎をおいて区別される表現でありながら、話し手はそれを意識することなく対象をとらえるときの一つの習慣として、対象のありかたに従って変わった表現をするという意識で表現しているのである〉という部分がよくわからなかった。
 話し手が「人が死ぬ」「人は死ぬ」を使い分けるのは、対象のありかたとらえかたが違っているからであり、そのように意識した結果ではないだろうか。「話し手はそれを意識することなく、対象をとらえるときの一つの習慣として」とはどういうことだろうか。
 また著者は、「この意味で、この種の助詞は客体的表現と主体的表現との中間にあるともいえる」とも述べているが、「客体的表現と主体的表現の中間」とはどういうことか、私にはよく理解できなかった。 (2018.2.3)