梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・66

三 屈折型
a↗↘b→c→d
 例えば「猿!」と呼ばれている人を振り向いて見ると、なるほど猿によく似ている。この滑稽感は、顔そのものや猿の概念、事象が滑稽なのではない。人間と猿との連想があまりに意外であり、もっともだという同感が伴った場合に滑稽に感じるのである。このように、聞き手が概念を通して予想外の対象を理解する過程、また話し手が素材を奇抜な概念で把握し、表出する過程を屈折型と呼ぶことする。曲線型が、霧の奥に堂塔を眺める朦朧とした感じであるのの対して、屈折型は、峠を登りつめて突然眼下に展開する海を見下ろした感じである。土砂降りの豪雨が一瞬に止んで、燦然とした太陽が雲間からのぞいた感じである。そこに印象の鮮やかな対比があり、体験の突飛な回転がある。屈折型にしばしば爆発的な滑稽感を伴うのはそのためである。川柳に、
● 源左衛門 鎧を着ると犬が吠え
● 義貞の勢はあさりをふみつぶし
 といったのは、文学における屈折型というべきで、源左衛門、義貞に関する我々の連想の常軌を遮断して、意想外な観念と結合させたところに滑稽がある。
 滑稽を主とする川柳には、語そのものに屈折型が多い。
● 珍しい神の名を売る(宮雀)
 宮雀は大神宮の案内人である。
● 見附から(わさびおろし)が出てしかり
● ふり袖は言ひそこなひの(蓋)になり
● 立臼に(天狗の家)家をきりたをし
● 飛鳥山(毛虫になって)見限られ
● 大名は一年置きに(角をもぎ)
 以上の句は、文学的に見て意味はないが、言語それ自身に滑稽感の根拠があるものである。また、膝栗毛に、
● エエ、此のすりこ木め(人→すりこぎ)
● エエ、二百だしゃア夜の馬に乗らア(女→馬)
 これも、語の屈折的過程と考えることができるだろう。
 また、同様に、
● 今の女の尻は去年までは、(柳)で居ったつけが、もふ(臼)になり、どふでも(杵)にこづかれると見える(「岩波文庫膝栗毛」)
● (旅雀)の(餌鳥)に出しておく留女の顔(同上)
 猥雑な事実の表現が美的滑稽館を与えることができるのは、屈折型表現過程の賜物である。
 屈折型は、素材的事物を、連想による概念に移行することによって成立するが、素材と概念との距離により、それが与える感情は種々さまざまである。そしてまた、屈折型による印象は最初は効果的だが、曲線型と同様に直線型に移行する。
● み空の(花) 夜の(とばり) 小川の(ささやき) 愛の(結晶)
 などは、直線型に移行しつつあるが、理解過程において経験される概念の曲折のために美しく感じられるのである。食物の名に「卯の花「甘露煮」「香の物」等の名称が付けられるのもその理由による。
 枕草子で清少納言は、
● かたさり山こそ、誰に所をきけるかにとをかしけれ。
● かしこ淵、いかなる底の心を見えてさる名をつきけむといとをかし。
● つまとりの里、人にとられたるにやあらむ、我とりたるにやあらむ、いづれもをかし。
等といった「をかし」の心境は、名の理解過程に介在する連想概念とその連想過程とによる感情である。
● かたさり山→かたさり・山→この名を負う実際の山
 上のような言語過程の屈折は、単に具体的事物(あるいは表象)と概念との間に成立するばかりでなく、概念と文字との間にも成立するものである。
 a→b(→c)↗↘d
 のような図形で示される形式である。例えば、
(涙)→涙、涕、泪、等と記載すれば、それは直線的だが、
(涙)→恋水   
 と記載すれば、理解過程に新しい概念の分裂があって、これが美化されるのである。万葉集における、いわゆる戯書は、このような文字過程における屈折型であり、屈折の角度の強弱によって優美感、滑稽感の相違を生じる。
四 倒錯型
 a→〇→b→c→d
 例えば、「君は馬鹿だ」という代わりに「君は利口だ」という類であって、「馬鹿」をその反対概念「利口」で把握し、しかも「馬鹿」の意味を表そうとする。また、この表現法はいわゆる謙譲のいい方「つまらないものです」「むさ苦しい所で」などの場合とは異なるが、この場合でも、理解者が倒錯型として理解するならば、反対概念をいい表したことになり、皮肉あるいは傲慢に聞こえるようになるのである。
 一般に、次のような形で、この方法は使われる。
● 人がいい・・・・・・実は愚鈍を意味する
● 抜け目がない・・・・狡猾を意味する
● 才人・・・・・・・・軽薄を意味する
● 堅い・・・・・・・・頑冥を意味する
 「源氏物語」にも、倒錯型の例が見られる。
● (朱雀院は)をかしき筋なまめき故々しき方は人に勝り給へるを、などてかく(おいらか)に生ふし立て給ひけむ(「源氏物語」若菜上」
 この「おいらか」は、善意の意味を表出したものでなく、批難の意味を含めている。「おいらか」という語は「尋常に、おおように、おとなしいという意味だが、上の例は、この語を通して、女三宮の教養に欠けるところがあることを表出したものである。同様に「若し」が若々しい意味に用いられると同時に、幼稚未完成を意味することがあり、「すくずくし」「うるはし」にも、その例があるように思われるが、まだ断定はできない。しかし、この方法が、言語過程を美化する手段であり、言語変遷の要因として数えることは許されるだろう。
【感想】 
 ここでは、話し手が素材を「奇抜な概念で把握し表出する」言語過程である屈折型と、あえて「反対概念で把握し表出する」倒錯型について述べられている。
 屈折型は、滑稽感を表すので江戸川柳や戯作の中で多用されている。例示されている川柳の滑稽感を、現代人が共感するためには努力が要る。「源左衛門 鎧を着ると犬が吠え」は、源左衛門という長屋の浪人は武士の魂である鎧、刀だけは念入りに手入れを怠らなかったが、鎧を身に着けた途端に犬が吠え立てた、つまり源左衛門の相手をするのは、今はもう犬の外は居なくなったという「揶揄」であろうか、ユーモアにペーソスの加わった作品であろう。「義貞の勢はあさりをふみつぶし」は、新田義貞が鎌倉の七里浜で刀を海に奉納して、干潮を祈願したという故事に基づいているのだろう。潮の引いた海底で軍勢に踏みつぶされるあさりがおかしくもあり、あわれでもある。
 著者はそれらを「文学における屈折型」と言い、また川柳を列挙して「言語それ自身に滑稽感の根拠がある」と述べている。私なりに考えれば、「わさびおろし」とは見附番人の衣装であり、「蓋」とは、口をふさぐ振り袖であり、「天狗の家」とは臼の材料になる大木であり、「毛虫になって」とは「花見盛りの時が終わって」ということであり、「角をもぎ」とは、「女房の嫉妬心を和らげること」であろう。
 「東海道中膝栗毛」を引用して「猥雑な事実の表現が美的滑稽感を与えることができるのは、屈折型表現過程の賜物である」と述べているところがたいそうおもしろかった。
さらに、著者は「概念」が「文字化」される過程でも屈折型表現が見られるとして、万葉集の戯書を挙げている。それらは現代の歌謡曲の歌詞にもしばしば見られる現象だと思う。「函館の女」「加賀の女」「薩摩の女」の「女」は「ヒト」と読み、「サダメ」を「運命」と表記する。なるほど、それが屈折型表現過程なのかもしれない。
 倒錯型は、「反対概念で表出する」方法であり、いわゆる謙譲的ないい方や曲線型の「遠回しな」いい方に似ているが、白を黒とはっきり「言い換える」点が異なるということだろう。「人がいい」「抜け目がない」「堅い」などが皮肉の表現であることは知っていたが、「才人」とは軽薄を意味するということは知らなかった。まさに「私は才人である」。(2017.12.15)