梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・60

三 言語の主体的表現(辞)に現れた敬語法
 言語における主体的なものの表現も、場面の制約を受けて敬語となるが、これはもっぱら、主体の聞き手に対する敬意の表現となる。
● お暑うございます。 ・・・ございませう。
● お庭を拝見します。 ・・・ました。
 上の「ございます」「ございませ」「ます」「まし」がそれである。
 これらは、主体の聞き手に対する敬意の直接的表現である。辞はすべて主体的立場の直接的表現だが、上の敬語も直接的表現であるという点で辞(否定辞、推量辞等)と共通しており、敬辞と呼ぶことができる。
 しかし、敬辞とその他の辞との間には、重要な相違点がある。
辞はつねに詞と連関し、これを包む関係になっているが、敬辞は表現素材に対する言語主体の敬意を表現したものでないことは明らかであり、ゆえに敬辞は詞を包んでいるものではない。それは、場面すなわち聞き手に対する敬意の表現である。そのような点において、敬辞は一般の辞と根本的に相違する。今、甲を話し手、乙を聞き手、丙を素材とすれば、一般の辞は甲の丙に対するものであり、敬辞は甲の乙に対するものである。
 敬辞は、主体の直接的表現である辞が、場面によって制約されたものだから、辞の場面における変容として理解しなければならない。
● 人だ。  人です。  人でございます。
 上の三者は、辞としては素材「人」に加えられた主体の判断の表現だが、この判断辞が場面の変化に対応して三段に変容したと考えるべきである。鈴木朗は言語四種論の中で、詞を器物、辞を(器を動かす)手に譬えた。敬辞は手の動かし方に相応するものといえるだろう。手と手の動かし方は同一次元のものではない。手は動かし方においてのみ手の職能を表すから、動かし方を持たない手は手ではなく、単なる肉塊に過ぎない。このように、辞はなんらかの敬辞において顕れるものであり、敬辞は場面に対して関数関係を持ち、場面の変化は敬辞法の変化であり、逆に敬辞法の変化はまた場面を変化させるのである。例えば、目上の人と相対することによって、
● お暑うございますね。
 という時は、場面が敬辞的変容をもたらしたのだが、堅くなっている相手に対して、
● 暑いね。
 と呼びかけるならば、その時、相手は親しい者として言語主体の前に置かれることとなるのである。自己の言語によって自己の場面を変化させるという事実は、日常しばしば経験することである。


 詞、辞、敬辞は、それぞれ表現形式を異にし、かつそれぞれに次元を異にしたものを表現している。そして敬辞は、辞の場面的変容であるということをさらに検討すると、次のような結論に到達する。
● 花が咲く。 《花が咲く》(■) 《花が咲き》(ます)
● 山が高い。 《山が高い》(■) 《山が高い》(です) 《山が高う》(ございます)● 犬だ。 《犬》(だ)  《犬》(です)  《犬》(でございます)
 上の零記号と「ます」、零記号と「です」「ございます」、「だ」と「です」「でございます」の対立は、それぞれ陳述の場面的変容である。そして陳述の内容それ自体は少しも増減されていないのである。このようにして、
● 花が咲く(か)  花が咲き(ますか)
花が咲か(ない) 花が咲き(ません)
花が咲か(う) 花が咲き(ませう)
花が咲い(た) 花が咲き(ました)
● 山が高い(か)  山が高い(ですか) 山が高う(ございますか)
山が高く(ない) 山が高く(ないですか) 山が高う(ございません)
山が高い(だらう)山が高い(でしょう) 山が高う(ございませう)
山が高か(った) 山が高い(でした) 山が高う(ございました)
● 犬(か)   犬(ですか)   犬(でございますか)
犬(でない) 犬(でないです) 犬(でございません)
犬(だらう) 犬(でせう)   犬(でございませう)
  犬(だった) 犬(でした)  犬(でございました) 
 等の系列が成立する。
「咲くか」は疑問の表現だが、それ以前に「咲く」という陳述がなければならない。だとすれば、「ますか」に対立するものは、零記号に「か」の加わったものであり、「ませう」に対立するものは、零記号に「う」の加わったものでなければならない。従って上の文は、
● 零記号・・・ます     《 》(■)・・・《 》(ます)
零記号+か・・・ます+か 《 》(■か)・・・《 》(ますか)
零記号+う・・・ませ+う 《 》(■う)・・・《 》(ませう)
 ということになり、敬辞は、要するに単純な陳述の変容としてのみ存在することとなり、種々の辞は、皆、判断の変容に加えられたものと考えることができる。ただし、「ない」「らしい」が「です」と結合する場合は異なる。  
 以上のように見てくると、敬辞的変容はただ陳述にのみ認めることができるということになる。従って、敬辞の加わったものから逆推していくと、「咲くか」「高いか」「犬か」等は皆、零記号の判断辞があると考えることが合理的である。
● 咲く(■)か  高い(■)か  犬(■)か
 このようにして、敬辞は、結局、判断辞の変容であるということになった。
【感想】
 ここでは、言語の主体的表現である「辞」による敬語法について述べられている。話し手が聞き手に対して、直接に敬意を表す表現法である。著者は、それを「敬辞」と呼び、疑問、推量等を表す一般の辞とは「根本的に異なる」と区別している。その理由は、一般の辞は、詞と結合して、詞を包むが、敬辞は詞を包まないからである。そこで、著者は「敬辞は、辞の場面による変容と理解しなければならない」という。
 辞の場面的変容とはどういうことかを、さらに検討した結果、「敬辞は、要するに単純な陳述の変容としてのみ存在することとなり、種々の辞は、皆、判断の変容に加えられたものと考えることができ」、敬辞は「判断辞の変容である」ということになったと結論されている。
 しかし、この論脈は難解で、私はまだ十分に理解できない。敬辞は、詞と結合して詞を包むことがないので一般の辞とは異なることまではわかったが、それが「判断辞の変容である」ということがどういうことかわからない。判断辞は、詞と結合して詞を包み込むことがあるのか、ないのか、そのこともわからなかった。
 ただし、私はこれまで「美しいです」「おいしいです」という敬語は誤りであり、「美くしゅうございます」「おいしゅうございます」と言うべきだと考えていたが、その考えの方が誤りであるということがわかったことは、大きな収穫であった。
(2017.12.8)