梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

国葬の是非・3

 「国葬」の基準は、その人物の「生き様」と「死に様」を、十分に見極めて決められなければならない。「生き様」も「死に様」も、国民に対してどのような貢献(奉仕)をしたかという観点から、見極めることが重要である。安倍元首相の場合、彼の「生き様」はどうであったか。在位期間は歴代一位の長さであったが、それだけでは、国民に対する貢献(奉仕)が十分であったとはいえない。事実、安倍内閣の最重要課題であり、必ず解決すると豪語していた「北朝鮮による拉致問題」は、《何の進展も無いまま》終わり、現状に至っている。また外交手腕を発揮し、諸外国から、本人のみならず国民に対する「弔意」までが数多く届けられているそうだが、そのことが国民に対する貢献(奉仕)とどのようにつながるのだろうか。国民の一人である私自身には、諸外国から「御愁傷様です」と言われても、何も感じられないのである。
 「死に様」も、選挙活動中の「横死」だったが、民主主義を守るための犠牲になったとは思えない。所詮は、所属政党のための利己的な活動に過ぎなかったではないか。加えてその結果、政治家の面々と「某宗教団体」の癒着(馴れ合い)が暴露されただけである、はたして、彼が死ぬことによって、国民の幸福が守られたのか。国民の幸福は、安倍元首相の生死とは、全く無関係なのである。
 以上、安倍元首相の死が「国葬に値しない」理由である。 それがわからない方々がいるので、僭越ながら私見を述べた。
(2022.9.19)