梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

『「自閉」をひらく 母子関係の発達障害と感覚統合訓練』(つくも幼児教室編・風媒社・1980年)精読・14

《第3章 田口理論をめぐって Ⅱ》(鈴木佐江子)
《1.「人にしてもらって楽しい活動」の生理学的分析》
・田口氏らによって推奨されている「人にしてもらって楽しい活動」90余例を感覚の種類別に系統的に分類整理してみた。その結果、平衡感覚および皮膚感覚刺激の活動例が圧倒的に多く、聴覚、視覚などの活動例、単純な感覚レベルを越えた遊び(ごっこ、歌、お話、ゲームなど)はごく少ないことがわかった。
・私たちは、感覚統合を促進し母子関係を成熟させるための母子による感覚遊びという視点から、これらの活動を活用している。ただし、ここに掲げられた活動は、比較的弱い刺激のものが多いので、年長の幼児や児童、皮膚感覚、平衡感覚の働きの鈍い子どもに対してかなり強い刺激をともなう活動を経験させようとする場合には、多少物足りない。子どもによっては、ここに掲げられている活動以外の適当な強さの刺激をともなう活動で補わなければならない。
◆「人にしてもらって楽しい活動例」の感覚別分類
◎平衡感覚
《ゆれ感覚》・おんぶ ・肩車 ・高い高い ・でんぐり返し ・子どもの体をごろごろころがすこと ・子どもと抱き合って横にごろごろころがすこと ・子どもを抱いたり横抱きにしてぐるぐる回ること ・おとなが床に仰向けになり足に子どもを乗せてくるくる回ること ・体ごとゆすること ・向かい合わせ、または背中合わせにんなり、前後、左右にゆらせて船こぎ運動をする ・四つん這いになり、子どもを背中に乗せて歩くこと
・高いところにいる子どもを抱いて受け取ること ・抱いて向かい合わせに座り、膝を上下にリズムをつけて揺らせ電車ごっこのまねをする ・向かい合わせになり。子どもだけ、または子どもと一緒にぴょんぴょん跳ぶこと ・机など高いところから抱いて飛び降りること ・台などの上から子どもの手を取って下へポーンと降ろすこと ・子どものわきの下と足をおとな二人で持ち左右・上下に揺らすこと ・追いかけっこ ・四つん這いになっておいかけっこ ・ぬいぐるみを使っておいかけっこ ・おとな二人が手を組み合わせ、子どもをその上に乗せて上下にゆする、おみこしわっしょい ・ハンモックに一緒に乗って揺らすこと、子どもだけを乗せて揺らすこと ・ブランコ遊び 子どもを乗せてゆらす、抱いて一緒にのる ・二人用のゆりいすでギッコンバッタンすること ・箱車・乳母車に乗せて移動させること ・手で体を支えてやりながらすべりだいの上をすべらせること ・空気でふくらませるビニール製の馬に乗せてピョンピョンはずませること ・回転イスの上に乗せて回転させること ・パンチキックの上に乗せてごろごろさせること、一緒に上に乗り向かい合わせになりピョンピョンはずませること ・ダンボールの箱の上に乗せる ・大きい円筒の中に入れ揺らせること
《倒立感覚》
・子どもの足を持って床を引きずって歩くこと ・逆立ちをさせること ・逆立ちにして前後、左右に揺らすこと
◎皮膚感覚
《触覚》・だっこ ・体をさすること ・ほおずりすること ・口の周りにふれること ・子どものおでこと自分のおでこをくっつけること ・耳。顔、手足に軽く息を吹きかけること ・子どもの手を子どもの顔や自分の顔につけること ・抱いて哺乳びんで飲ませること ・毛布でくるんで抱くこと ・ヘビ笛の羽毛で耳などをくすぐること ・ぬいぐるみや指人形を使って子どもの体を触ること ・手に持った輪を子どもの体にはめること・ヘビ笛を互いに吹き合うこと ・玉入れの玉やボールを子どもの頭に投げたりすること・子どもの頭をなでること ・かいぐり
《圧覚》・抱いてギュッと抱きしめること
《痛覚》・子どもの手を持ってパチパチたたいたりする ・体をかいてあげること ・ボールの投げ合い
《くすぐり感覚》・くすぐること
《水感覚》・プールや風呂で水をかけあうこと
◎固有感覚
・赤ちゃんた体操のような手足の屈伸体操をすること ・子どもの手を持ってダンスや体操など ・ふとん、マットレスの上でレスリングのまね ・パンチキックで互いにけり合うこと ・レスリングのまね ・ボクシングのまね ・すもう ・オツムテンテン ・チョチチョチアワワ ・鍋鍋底抜け
◎聴覚
・ささやき声で語ること ・耳もとでささやくこと ・口笛を吹くこと ・子どもの顔の前で唇で音を出すこと、下で音を出すこと ・ビニール製のトンカチを持ってするおいかけっこ ・子どもの喜ぶTVのCMのまね
◎視覚
・自分の顔を「バー」と言いながら子どもの側に近づけること ・百面相 ・イナイイナイバー ・かくれんぼ ・押し入れ、カーテン、風呂敷などを使ってするイナイイナイバー ・鏡を使って百面相をする ・ダンボールの箱を使って、イナイイナイバー、かくれんぼ ・上がり目、下がり目 ・にらめっこ
◎その他
・げんこつ山のたぬきさんなどの歌遊び ・せっせっせ ・通せんぼの遊び ・かごめ ・通りゃんせ ・はじめの一歩 ・花いちもんめ ・おもちゃの鉄砲を使って撃ち合いのまね ・ぬいぐるみや指人形を使って話をする ・子守歌を歌うこと
【感想】
・田口理論では、以上の活動を「1千時間以上、行うこと」を推奨しているが、それらの内容は、格別、目新しいものではない。特別な技能を必要としているものでもない。親ならば誰もが「育児行動」として自然に行ってきた活動である。「1千時間」という時間は、1日1時間として1年間で365時間、ほぼ3年間で達成できる。もし1日2時間行えばほぼ1年半で可能という計算ができる。3歳までに母子関係が成立し「母子分離」ができるようになるための必要時間であり「長すぎる」ことはない。従来の母親たちが「ごくあたりまえに」行ってきたことである、しかし、そのことが(三人に一人の割合で)母親にとっては「むずかしい」という現状がある。なぜだろうか。①家事に追われて、そのための時間がとれない、子どもと遊ぶ気持ちの「ゆとり」がない、②病気、体力不足などがあり、思うように取り組めない、③親自身が、そのような「育児行動」で育てられてこなかった、だからその「やり方」(楽しませ方)がわからない。④そのような活動に、大きな「意味」を感じられない、子どもを「楽しませる」ことよりも「自立」を目差して身辺処理能力や学習能力を育てることの方が大切だと考えている等の理由が考えられるが、とりわけ③、④の場合が問題である、と私は思う。最近では「子どもをあやす」ことができない、その意味を知らない母親も増えていると聞く。また④の場合は、20世紀初頭のアメリカで高名な心理学者ワトソン博士が提唱した、(以下のような)「ワトソン式育児法」の影響を(未だに)受けているからかもしれない。
〈無知な母親がいる。彼女たちはいつも子どもにキスを浴びせ、抱きかかえ、揺すり、体をなで、くすぐっているけれども、そういう猫可愛がりは、子どもの健全なエゴの形成を歪めるものなのだ。社会に出て、他人と互角に競争できないような人間を作っているのである。しかもこのことを彼女たちは知らない・・・。賢明な幼児教育はかくあるべきだ。子どもを、大人と同等に扱うこと。・・・絶対に、子どもを抱きかかえたり、キスしたりしないこと。ひざののせてあやさないこと。どうしてもキスしたいなら、「おやすみなさい」のとき額に1回だけにすること。・・・すべての猫可愛がりはやめて、懇切な言葉で説明してあげる、あたたかい微笑で愛情を伝えてあげるなどのように、母親が自己訓練しなければならないのだ。子守が雇えなければ、裏庭に外部からの危険な侵入が防げるだけの柵を設け、その中に一日中放っておくくらいがかえって子どものためになる。できるだけ早く、このような育て方をはじめなさい。・・・そんな放任育児はとても心配で、と思う母親は、のぞき穴かかくし戸を使って、子どもの目に自分の姿が見えないような工夫をすること。そうして最後に、赤ちゃん言葉やあやし言葉は絶対につかわないこと〉。
 なるほど、「一億総活躍社会」を標榜する今の日本では、わが子を「社会に出て、他人と互角に競争できないような人間」にしないために、ワトソン式育児法に共鳴・実践しようとする親がいてもおかしくないか。しかし、1970年代、動物行動学者デズモンド・モリスはその育児法を以下のように批判している。
〈最初から、赤ん坊をヤング・アダルトとしてではなく、「赤ん坊」として扱うだけでいいのだ。生まれたばかりの赤ん坊に、母親がありったけの愛情を与えることが何と言っても必要なのである。出し惜しみはいけない。「ほどほどの」愛情ではだめ、できるかぎり努力して愛情をあたえなくてはならない。事実、自分自身の幼児期に歪んだ育児体験を受けていない通常の母親ならば、人間の自然の情として、最高最大の愛情をわが子にふりそそぎたいという衝動にかられるはずなのだ。(中略)このようにして母親の愛情を充分に亨けて育った子どもはいわゆるだめな子になるどころか、年齢が多くなるにつれ、独立心にとむ個性となる。他人への情愛が、周囲の現実への生き生きした関心と探究心が、何にも阻害されないで同時に身につくので、間違っても「だめな子」になる心配などない。実際、幼い時に、自己についての安心感と保護感覚を充分に保障された子どもは、ある年頃になると、その生存への自信を基盤に、思いきり人生の開拓へと羽ばたきはじめるものなのだ。(中略〉満二年間十分な愛情ではぐくまれた子どもは、三年目になると、確かな足どりで外部の世界を歩みはじめる。(中略)以上のことはいいかえると次のようになる。愛情で全面的に結びついた関係が一度親子の間に確立されると、その子どもは、次の成長の段階にうまくすすむことができる。現実の世界のなかに全身でぶつかるこの段階へきたとき、はじめて、子どもは両親からしつけられ、教育される必要が出てくるのだ。赤ん坊のときにやってはならなかったことを、今度こそ、子どもは必要とするのである。子どもに対する過保護・溺愛を禁じるワトソン式育児法は、満二歳以上の幼児に限っては、あるていど正しいといえる。しかし皮肉なことに、赤ん坊のときにやかましいワトソン式しつけを強制された子どもが、せっかく正しいしつけを開始すべき満二歳以後になってから妙に反抗的になり、そのためにかえって親が過保護にこの子を扱うはめになりがちなのだ。一方、赤ん坊時代に、親に充分に愛情をかけられた子どもなら、へんに反抗したりしないに違いないのである。〉(『ふれあい 愛のコミュニケーション』(D・モリス著、石川弘義訳・平凡社・1974年)
・育児法は本来、親から子、子から孫へと受け継がれていくものだが、核家族化した現代社会では「育児書」に頼る親が増えているだろう。「ワトソン式育児法」以前には「シニア博士、以後にはスポック博士、ダドソン博士、日本では松田道雄博士の「育児書」が有名だが、その内容は千差万別であり、親の不安・心配が解決されるとは限らない。いずれにせよ、育児は「動物の飼育」ではないのだから、親の「全面的な犠牲」によって「初めて」成り立つという原理・原則を取り戻さなければならない、と私は思う。利便化、合理化が推奨される現代社会の中で、育児法自体もまた親にとって「都合がよい」方向だけに変質していくことを危惧するのである。(2016.3.30)