梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

『「自閉」をひらく 母子関係の発達障害と感覚統合訓練』(つくも幼児教室編・風媒社・1980年)精読・10

《5.子どもの側の問題》
・田口理論をさらに発展させるためには、むしろ子どもの側に視点をずらして、そうした子どもたちはなぜ生得的に泣かないか、あるいは泣きやまないかという問いを提起することが必要であろう。母性行動は本来、最も切実な基本的欲求を満たすものとして、子どもから泣き求められ、かつ喜びをもって迎えられるのがふつうだからである。この子どもたちが「通常の育児行動がうまくあてはまらなかった」子どもたちであるとすれば、「通常」でないのは、子どもの側の感受性、育児刺激を感受する感覚の働きではないか、ということになる。個々の子どもによって、特定の感覚が鋭すぎるために「通常」のなんでもないような刺激が不安・緊張(回避傾向)をもたらすか、あるいは逆に特定の感覚が鈍すぎるために、「通常」の強さの刺激では子どもに満足(接近傾向)をもたらさないと考えられるのである。
・心因論の立場に立つティンバーゲン夫妻もまた、個々の子どもによって、回避傾向か接近傾向かのいずれかを助長、もしくは減退させる特定の感覚刺激があることを認めている。・私たちはこうした子どもたちの側の感受性の異常に注目し、異常な感受性に配慮した特別の(通常でない)育児行動を展開することによって、より適切な援助を提供できるのだと考えている。
【感想】
・著者は、子どもの側の愛着行動が妨げられる原因として、「感覚障害」を想定している。そして「異常な感受性に配慮した特別の(通常でない)育児行動を展開することによって、より適切な援助を提供できるのだと考えている」と述べている。その《特別の(通常でない育児行動を行うのは、子どもの側ではなく、育児をする母親(両親)の側であることを確認したい。
・また、著者は「子どもたちはなぜ生得的に泣かないか、あるいは泣きやまないかという」問題を提起しているが、「感覚障害」という立場からそれにどう答えるか、たいそう興味深い問題である。「自閉症」と呼ばれる子どもの中には「生得的に泣かない」場合と、あるいは「泣きやまない」場合があるという。二つの「反応」は正反対なのに、いずれも「自閉症」の初期症状(行動特徴)として「並列」されるのはなぜであろうか。それは、ただ一点、母子の「相互反応」が円滑に展開しないという「共通点」だけを見ているからであろう。しかし、両者には「対人関係」の発達という観点から見ると「天と地」ほどの差異があると私は思う。
 ①出生時「産声」をあげなかった。②泣き声が弱々しかった。③激しく泣いて、泣きやむまでに時間がかかった。(泣きやませるのに苦労した)④はじめは普通に泣いていたが、次第に泣かなくなった。以上のうちで、子どもの側の「生得的な問題」が推測されるのは①と②である。この場合、周囲は「泣き声」をあげさせよう、強くさせようと努めるに違いない。それが、通常の育児行動である。③の場合はどうだろうか。「生得的に《泣きやまない》」ということがあり得るだろうか。子どもは「泣いて」不快感を訴える。母親はその不快感を取り除こうと様々に試みるが、効を奏さない。子どもの側に「感覚障害」があるとすれば、母親の試みが子どもの不快感を高めてしまっているかもしれない。しかし、子どもの側は、少なくとも「泣いて訴える」というコミュニケーション能力は「生得」しているのである。どうすれば泣きやむか、それに答えなければならないのは母親の側である。子どもが「泣き出す」要因、「泣きやまない」原因を母親は、子どもから学ばなければならない、それが、「相互反応」の実態であり、通常の育児行動である。④の場合は、明らかに「生得的な問題」ではない。子どもは「泣いて訴える」が、母親はそれに応じない。そうした「(非)相互反応」が繰り返されれば、「次第に泣かなくなる」のは当然の結果である。1900年代初頭から提唱された「ワトソン式育児法」や1960年代の「スポック博士の育児法」では、早くから子どもの「自立心」を養うために(乳児に「抱きぐせ」をつけないために)、子どもが泣いても「無視」することが推奨されている。なかでも後者は一時期、日本でもベストセラーになるほど普及した「育児法」であり、その影響を受けている親が今いたとしてもおかしくない現状ではないだろうか。阿部秀雄氏の提唱する「異常な感受性に配慮した特別の(通常でない)育児行動」とは全く別の意味で、《特別の(通常でない)育児行動》が、社会に蔓延していることはないか、検証しなければならない課題であると私は思う。(2016.3.26)