梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「第100回全国高等学校野球選手権大会」の《愚》

 「第100回全国高等学校野球選手権大会」が《やっと》終わった。今回の決勝は、秋田対大阪で、「予想外」の公立校と「予想通り」の強豪私立校の対戦となった。戦前から結果は見えていたので、私には何の興趣も湧かなかったが、秋田県民は優勝を夢見て大いに盛り上がったそうである。それに比べて、大阪府民が「地域を挙げて懸命の応援をした」という話は聞かない。さもありなん、強豪校は「第Ⅲ類」に選りすぐりの選手を「推薦」で入学させ、「野球」を授業の中に採り入れている由。プロ選手の「養成機関」といわれてもしかたあるまい。大阪に限らず、今やそのような私立校が全国各地に点在している現状について、主催者である「公益法人全国高等学校野球連盟」はどのような見解を示しているのだろうか。
 「定款」を見ると、「目的」には「この法人は、日本学生野球憲章に基づき、高等学校野球の健全な発達に寄与する」とある。さらに、その日本学生野球憲章の前文には、「国民が等しく教育を受ける権利をもつことは憲法が保障するところであり、学生野球は、この権利を実現すべき学校教育の一環として位置づけられる。この意味で、学生野球は経済的な対価を求めず、心と身体を鍛える場である」とある。続けて、御丁寧にも以下の(解説もどきの)文言が添えられていた。
《学生たることの自覚を基礎とし、学生たることを忘れてはわれらの学生野球は成り立ち得ない。勤勉と規律とはつねにわれらと共にあり、怠惰と放縦とに対しては不断に警戒されなければならない。元来野球はスポーツとしてそれ自身意昧と価値とを持つであろう。しかし学生野球としてはそれに止まらず試合を通じてフェアの精神を体得する事、幸運にも驕らず悲運にも屈せぬ明朗強靭な情意を涵養する事、いかなる艱難をも凌ぎうる強靭な身体を鍛練する事、これこそ実にわれらの野球を導く理念でなければならない。》
 教育の一環として位置づけるためには、「明朗強靱な情意」を涵養し、「強靱な身体を鍛錬する」という「理念」を忘れてはいけない、ということであろう。 
 なるほど、気温30度を超える炎天下でもゲームを「強行」し、監督が選手に過度な負担をかけても「平然」としていられる理由は、この教育理念にあったのか。
 しかし、それは《誤り》であることを、他ならぬその憲章自体が証明している。
 総則第2条・学生野球における基本原理は次のとおりとする」という規定の中には、《⑦学生野球は、部員の健康を維持・増進させる施策を奨励・支援し、スポーツ障害予防への取り組みを推進する。》とある。読めば一目瞭然、大会の強行が「部員の健康を維持・増進させる施策」であった、と断言できるか。
 昨日の「サンスポニュース」には「全国高校野球選手権大会の大会本部は21日、熱中症、日射病の疑いが15人いたと発表した。開幕した5日からの大会期間中の合計は343人となった」という記事が載っている。症状の程度は不明だが、死者が出なかったことは不幸中の幸いであった。 
 さらに、
《④学生野球は、学生野球、野球部または部員を政治的あるいは商業的に利用しない。》という規定、前文の《学生野球は経済的な対価を求めず》に至っては、「何をか言わんや」という実態であろう。学生野球は「教育の一環」として位置づけられているにもかかわらず、プロ選手の養成機関となりはて、数多くの部員(選手)をプロの球団に「売り渡している」ではないか。取引、金銭の授受がないから「商業的に利用」してはいない、「経済的対価を求めない」という弁解は無用である。それが「教育の一環」だとすれば「進路指導」とでも位置づけるか。唾棄すべき詭弁である。
 終わりに、今回の開催に際して、大会本部は「あくまで選手ファースト」だと言い、選手は「甲子園での開催を強く望んでいる」ことを強調した。もし大会が「教育の一環」として行われるというなら、その希望は「現代にはそぐわない」ことを選手に理解させることが、指導者の責務であろう。その昔(昭和30年代)には、「神宮は東京六大学、後楽園は都市対抗、甲子園は高校野球」と決まっていた。ただし、当時の「夏」は今より数段涼しかったのである。その変化を今の球児が知るよしもない。《夏の高校野球は甲子園》にこだわる時代は終わっているのである。
(2018.8.22)