梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

大衆演劇・幕間閑話・大歌舞伎名門御曹司の《醜態》

大歌舞伎名門の御曹司が「酒の上の不始末」で醜態を晒している景色は、文字通り「無様」としか言いようのない「有様」だが、それをネタに「一儲け」を企むマスコミ・ジャーナリズムの面々も見苦しい限りである。もともと、この御曹司(父と同様)、大した実力もないのに、ミーハー連中の「人気」を盾にして、「自分の芸は《無形文化財》に値する」などと。とんでもない錯覚をしていることが問題なのである。〈作家の利根川裕さんは「類いまれな歌舞伎役者の素材であることを本人がもっと自覚して、自分を大事にして一日も早い復帰を」と望む〉(東京新聞12月8日朝刊 )〈「江戸っ子と助六」などの著書がある演劇評論家の赤坂治積さんは「役者は表現者として、酸いも甘いもしっておくほうがいい。悪人も演じるのだから」と一定の理解を示す。「品行方正な優等生が演じても、面白みがない。役者は小さくまとまらず、破天荒なところがあっていい。それを世間も容認していた〉(同・12月9日朝刊)などといった「世評」が、そのことを裏付けている。御曹司のどこが「類いまれ」なのか。どこが「破天荒」なのか。私は数年前、御曹司の舞台・世話物狂言「小袖曽我薊色縫」(十六夜清心)を見聞しているが、白塗りの二枚目・なよなよした清心が、一転「悪人」に変化(へんげ)する場面を観て驚いた。何だこりゃ!?、役者が「地」に戻っただけではないか。ただドスをきかせて凄むだけ、「悪人を演じる」風情とは無縁であった。まあ、大衆などという代物は所詮「ミーハー」、見る眼がないといえばそれまでの話だが、どうしてどうして「大衆演劇」の役者の方が、御曹司など足元にも及ばない「名演技」を披露している。例えば「仇討ち絵巻・女装男子」の鹿島順一、「三島と弁天」の小泉ダイヤ、「弁天小僧・温泉の一夜」の橘龍丸、「身代わり街道」の白富士健太、「女小僧花吹雪」の梅乃井秀男等々・・・、数え上げればきりがない。さだめし「品行方正な優等生」の著名人には、およそ知るよしもない役者連中であろう。彼らは、しがない「旅役者」、その日その日の劇場で、その日その日の演目(日替わり)を、数十名の観客を相手に、「日にち毎日」演じ続けているのである。座長口上の決まり文句は「未熟者揃いの劇団ではありますが、どうか千秋楽までお見捨てなきよう、よろしくお頼み申し上げます」。今、件の御曹司にとって必要な修業は、そのような精進、そのような謙虚さを学ぶことである。間違っても今回の騒動が「酸いも甘いもかみ分けるよい機会になった」などと思い上がってはいけない。大衆演劇の役者に比べて「十年早い」のである。そんな折、大歌舞伎界、稀代の名優・阪東玉三郎が、御曹司の代役を引き受けたという。曰く「一月が空いており、お引き受けしなければと思った。お声がかかるうちが花。東京での公演は(4月の)歌舞伎さよなら公演以来。やる以上はお正月らしい華やかな舞台にしたい」と語った。(同・12月10日朝刊)さすがは名優、その心がけ(根性)が違う。「お声がかかるうちが花」、その謙虚さこそが「至芸」の源泉であることを、私は確信した。一見「品行方正な優等生」と見られがちな坂東玉三郎こそ、「酸いも甘いも噛み分けた」稀代の歌舞伎役者であることを見落としてはならない。(2010.12.10)