梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「老いる」ということ

正午、JR飯田橋駅で旧友A(中学、高校時代の校友)と待ち合わせ後、徒歩15分ほどの所にあるR寺に向かう。途中のコンビニで缶ビールを購入、Aは自宅から庭木の枝、線香を持参。三年前に他界した亡友S(小学校、中学校の校友)の墓参が目的である。俗謡に、「いい奴ばかりが先に逝く、どうでもいいのが残される」(唄・小林旭)という一節があったが、はたして亡友Sは「いい奴」であったか、しかし、「どうでもいいの」ではなかったことだけは確かである。現に、Aも私もこのように、誰からも強いられることなく墓参に訪れているのだから・・・。墓碑には、平成十八年十月四日、享年六十一歳と刻まれていた。昨今の高齢化社会では「早すぎる」とも思われるが、私自身は「ちょうど頃合いだな」と思う。墓石にビールをかけながら、「Sよ、いい時に逝ったよな。おめでとう」という言葉を呟いていた次第である。墓前で、ひとしきりSの思い出話に花を咲かせ、帰路についたが、Aも私も、その後「行く当て」がない。ブラブラと水道橋まで歩き、とある中華料理店に入った。餃子、レバニラ炒めを肴に紹興酒で乾杯、近況を情報交換しあったが、若いときと違って、どうにも力が入らない。Aは最近、旧友I(Sと同様、小・中学校の校友)と交流したという。Iの特長・性癖は「誇大妄想」とでもいおうか、元来が建築設計を目指していたせいか、想像(構想)と現実の区別が出来ない。とりわけ、「金勘定」が苦手とあって、周囲に迷惑をかけること夥しい。IからAに不動産取引の話があり、某業者を紹介した由、「あまり深入りしない方がよい」旨を伝えるが、なんとも「うら悲しく」「わびしい」限り。Aは紹興酒の二杯目を注文したが、ついに飲み干せぬまま退出するありさまであった。なるほど「老いる、とはこういうことなのか」、それにしても「お互いに年を取った」ことを再確認して解散、長いようで短い「一日」が終わった。(2009.10.11)