梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「高齢化社会」の象徴

 スーパー銭湯のサウナ室で、テレビニュースを見ていたら、〈施設を脱けだした、七十歳代の女性が、秋葉原の無差別殺人に触発されて『通り魔事件』を起こした。その裁判で、懲役6年を求刑されたが、件の女性は、「施設に帰るくらいなら、刑務所の方がましだ。それよりも早くあの世に行きたい」とうそぶき、裁判官から「もっと、命を大切にしなさい」と諭された〉という。聞き覚えなので、正確な詳細は不明だが、この事件は、現代の「高齢化社会」の実態を象徴しているように思われた。まさに「死ぬに死ねない」、とはいえ「生きるに生きられない」高齢者の「もがき・あえぎ」が、ひしひしと伝わってくる。とうてい他人事とは思えない。この女性の「不幸」は、高齢者にしては「若すぎる」という、つまり「上手に年をとれなかった」点にあるのではないだろうか。事の是非はともかくとして、七十歳代にして「他人を殺傷しよう」と思い(秋葉原の事件に触発されたという動機も「若すぎる」)、それを実行に移したエネルギー(若さ・生命力)も「年齢並み」とは思えない。そのエネルギーを「犯罪」にではなく「労働」の方に向けることができたなら「もっと、ましな仕事ができたろうに・・・、とは誰しもが感じることであろう。勝手な想像をすれば、その女性は「働きたかった」。まだまだ、働いて(あるいは、人のためになって)充実した人生を送りたかった。しかし、現実は甘くない。「高齢者」というだけで、そのチャンスは奪われ、「施設」に送り込まれた。そこは「現代の姥捨山」、誰もが「生ける屍」にならなければならない。『いやだ!、私はまだ働ける。施設に帰るくらいなら、刑務所の方がましだ(そこには「労働」がある)』、という思いが犯行の動機だったかもしれない。要するに、「高齢者は早く死ね」と(社会が)言うのなら、「わかった、他人と刺し違えて死んでやるわい」といった自暴自棄の「絶望感」が、この女性を支配しているに違いない。そしてまた、この「絶望感」こそが、現代・「高齢化社会」の象徴に他ならない、と私は思う。
 若者に人気のあったかつての小泉純一郎・元首相は、〈日本人の平均寿命(の長さ)こそ、「平和」「幸福」の証〉というような言辞を弄していたが、それが全くの「詭弁」に過ぎなかったことを裏付けるニュースではあった。(2008.11.19)