梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「山のあなた」(カール・ブッセ)

 以下のとおり、「山のあなた」(カール・ブッセ 上田敏訳『海潮音』より)という詩がある。
〈山のあなたの空遠く「幸」住むと人のいふ。ああ、われひとと尋めゆきて、涙さしぐみ、かへりきぬ。山のあなたになほ遠く「幸」住むと人のいふ〉
 さて、「幸」とは何だろうか。私は長い間、ずっとずっと、それは「愛する人と一緒にいることだ」と思っていた。だから、上の詩は「山の向こうの、遠い遠い所に『愛する人』がいるはずだ。その人を求めて行ってみたが、会えずに帰ってきた。でも、思い切れない。今でも、山の向こうの、遠い遠い所には、きっと『愛する人』がいるはずなんだ」というような意味だと解していたが、最近、、この詩のことが気になって読み返してみたところ、新しい疑問が湧いてきた。もし、引用した原文に間違いがないとすれば、〈「幸」住むと人のいふ〉のヒトは「人」という漢字であらわし、〈ああ、われひとと尋めゆきて〉のヒトは「ひらがな」であらわしているのは何故だろうか。ドイツ語の原文では、Ach,und ich ging im Schwarme der andern という箇所が該当するとおもわれるのだが・・・。ある人は、〈われひとと尋めゆきて〉を「私とおなじように“幸”を探しているたくさんの人がいた。でもやっぱり見つからなかった」と解している。(http://pinkchiffon.web.infoseek.co.jp/book-yamanoanata.htm) つまり、「ひと」イコール「人」ということである。だとすれば、私はこの詩の解釈を以下のように改めなければならないだろう。「山のむこうの、遠い遠い所に「幸」の地があると、みんなが言っている。私は「愛する人」と一緒に、その地を探しに行ったが、見つけられずに悲しく帰ってきた。それもそのはず、「愛する人」と「一緒に」いるだけで「幸」な筈なのに、それ以上の「幸」を求めるなんて「欲張り」にもほどがある。だから、みなさい。あなたの「愛する人」さえ、悲しく(絶望して)帰ってきて、(なおかつ、去って行って)しまったではないか。山の向こうの、遠い遠いところに「幸」が住んでいるという人々の声が、今も私の耳に(むなしく)聞こえる」
 いずれにせよ、この世で「幸」を手にすることなんて「できるがずがない」という諦めが肝要ではあるまいか。
(2010.1.30)