梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「NHKスペシャル 認知症の第一人者が認知症になった」

 「NHKスペシャル 認知症の第一人者が認知症になった」を観た。NHKは番組の内容を以下のように解説している。
〈〝君自身が認知症になって初めて君の研究は完成する″かつての先輩医師の言葉を胸に、自ら認知症であるという重い事実を公表した医師がいる。認知症医療の第一人者、長谷川和夫さん(90)。「長谷川式」と呼ばれる早期診断の検査指標を開発、「痴呆」という呼称を「認知症」に変えるなど、人生を認知症医療に捧げてきた医師だ。NHKはこの1年、長谷川さんとその家族の姿を記録し続けてきた。認知症専門医が認知症になったという現実をどう受け入れ、何に気づくのか。カメラには、当事者としての不安、家族の葛藤…その一方、専門医ならではの初めての気づきも記録されている。認知症になったら、不確かな状態がずっと続くと思っていたが、正常な状態も確かに存在するということ。言葉が分からくなって話せないのではなく、「自分の言葉」に自信がなくなり、殻に閉じこもってしまうということ。確かさを取り戻すためには、他者との絆が重要であること…。
人生100年時代を迎え、誰もが認知症になりうる時代。長谷川さんが気づいた新たなメッセージを届け、認知症新時代を生き抜くための「手がかり」と「希望」を紡ぐ。〉(「NKKスペシャル・ホームページより引用)
 長谷川医師は先輩から「君自身が認知症になって初めて君の研究は完成する」と言われたそうだが、私はそうは思わない。私なら「あなたの研究は認知症を《治して》初めて完成する」と言うだろう。認知症とは何か、どのような症状を呈するか、という実像をいかに究めたとしても、それはまだ研究の半ばに過ぎない。その原因を究明し、治療仮説を立て、検証して、快癒という事実を導き出した時、初めて研究が完成したと言えるのである。その検証の段階で、みずからを実験の対象とすることはよい。むしろ医師として、あるいは研究者として当然の責務であろう。
 だがしかし、この番組を観る限り、長谷川医師の研究は出発点に戻ったようである。彼は、早期診断の検査指標を開発し、「痴呆」という呼称を「認知症」に変えるなど、人生を認知症治療に捧げてきたが、その軌跡自体が、彼自身の「認知症」を招いたように感じる。まず、彼は検査指標を開発することにより、認知症か否かを判定する基準を《明確》にした。そして「痴呆」を「認知症」という呼称に改めることによって、《認知症》という疾患(の概念を)創出した。その結果、彼自身がその基準、その概念に拘束され、みずからを、(本来、フィクショナルな概念に過ぎなかった)「認知症」の具現者に追い込んでしまったような気がする。自分は「認知症になった。だから(自分が描いていた)認知症患者のように振る舞わなければならない。そして、これからさきどうすればいいか、それもわからない」という戸惑いが、私には感じられた。
 長谷川医師は、「毎日の生活の中で《確かさ》が減っていく」と語っていた。それは、老いの身であれば誰もが感じる実感であろうが、彼はこれまで、人一倍《明確さ》を求め、それを武器として生きてきたのかもしれない。
 極め付きは、彼自身が提唱した「認知症」の治療方法(デイサービスのリハビリテーション)を彼自身が「体験」し、全く興味が湧かなかったことである。彼は思ったに違いない。「私はこれまで何をしてきたのだろうか。認知症患者のために、よかれと考えてしてきたことが、今の私には何の役にも立たない。私の人生は失敗だった。卒寿にしてこのザマだ」。
 番組の解説では、以下のように述べられている。  
〈カメラには、当事者としての不安、家族の葛藤…その一方、専門医ならではの初めての気づきも記録されている。認知症になったら、不確かな状態がずっと続くと思っていたが、正常な状態も確かに存在するということ。言葉が分からくなって話せないのではなく、「自分の言葉」に自信がなくなり、殻に閉じこもってしまうということ。確かさを取り戻すためには、他者との絆が重要であること…。〉
 特に、「認知症になると周囲の景色はどのように見えますか」というスタッフの問いかけに、「まったく変わらない。普通に見える」と答えていたことが、「認知症」の実相を的確に捉えていたと、私は思うが、長谷川医師の表情から「自信」や「絆」を感じ取ることはできなかった。その厳しい現実を描出できたことにこの番組の価値がある。
 私は心底から長谷川医師にエールを送りたい。みずからが認知症である事実を公表、1年にわたるNHKの取材を受け入れたことに敬意を表します。人生100年時代、生きている限り「認知症治療」の可能性は拡がります。どうか「こうすればいい」という方向性をお示しください。生きていることの自信と絆を取り戻すために、何が一番大切なのでしょうか。 
(2020.1.11)