梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

子どもたちの《未来》

 今から15年前、私は以下の駄文を綴った。
■兄弟の死
 愛くるしい二人の兄弟は、遂に逝ってしまった。児童相談所の所長は「助けてあげられなくてごめんなさい」と謝ったが、同時代に生きる大人たちのすべてが謝らなければならない、と私は思う。
それにしても、二人の兄弟はどうしてあのように「かわいらしい表情」を見せることができたのだろうか。報道されたあの写真は、いつ、どこで、誰が撮したものだろうか。
当初、私は「二人は絶対に生きている」と確信していた。逆境の中でも、あのような写真を撮る人がいる限り・・・。
また、兄弟が住んでいたアパートのベランダには、真っ白い洗濯物が、見事なまでに整然と吊されていた。その洗濯をしたのは誰だろうか。あのような生活をしている人がいる限り、兄弟が殺されるはずがない。
しかし、現実はそれほど「甘く」はなかった。
兄弟を誘拐し、殺害した容疑者は、「覚醒剤」を常用し、「虐待」(暴行)を繰り返していたという。そのことを周囲の関係者が「知りながら」、救い出すことができなかったのはなぜか。皆、「自分のこと」を第一に考えていたからではないだろうか。
容疑者の贖罪は無論のことだが、覚醒剤の製造・提供を容認している社会、「子ども」を「親の所有物」として「私物化」している社会、「人に迷惑をかけない・かけられたくない」ことが規範とされている「個人」偏重の社会、そのような社会を形成している私たちもまた、(「間接的な容疑者」として)贖罪を免れることはできないのではないか。
兄弟の死は、世界に誇る「長寿国・ニッポン」の「平和・幸福」が、「砂上の楼閣」に過ぎないことを、悲しく物語っているのである。(2004.9.20)


さらに、その2年後、以下の駄文を綴った
■懲役五年の罪?・乳幼児虐待の結果
 最近のニュースによると、生後九ヶ月の乳児を「虐待死」させた二十代の両親に、懲役五年の判決が下ったという。罪名は「傷害致死罪」ということだが、はたしてこの両親は「たった五年間」の懲役でその罪を十分に償うことができるだろうか。
 最も守らなければならない乳幼児の「生存権」が、他ならぬその保護者によって侵され
ているという現状をどのように理解すればよいのだろうか。「虐待死」は、過失でも事故でもない。殺意がなかったとすれば、「懲戒権」(親権)の濫用に当たるのだろう。しかし、子どもは親の「所有物」ではない。自立しているか否かに関わらず、「基本的人権」を付与された「社会人」(社会的存在)であることを確認したい。その人権を守るのは誰か。生後九ヶ月の被害者の立場に立ち、その「無念さ」を代弁するのは誰か。
 「虐待死」の被害者が、①みずからに何の落ち度・過失がない、②加害者に対して全く無抵抗である、③自ら身を守る術がない、という点では、あの「同時多発テロ」「地下鉄サリン事件」の犠牲者と共通している。したがって、加害者の罪は「極刑」に値すると私は思う。
 警察には「民事不介入」の原則があるので、家族間の犯罪を未然に防止することが難しいということであれば、その刑罰をより強化するほかに、この種の犯罪を防止することは不可能ではないだろうか。被害者が「身内」だからといって、加害者の罪が軽減される理由はない。
(2006.9.30)


そして、さらにその10年後に綴った駄文は以下の通りである。
■乳幼児虐待死の「責任」
 東京新聞13日夕刊(7面)に「狭山・3歳児死亡 同居の男『湯かけた』 全身にあざ 日常的に虐待か」という見出しの記事が載っている。別の報道では、その女児がベッドの上で「正座」している映像もあった。「そうすれば、パパが怒らない」からだという。その幼気な姿は愛おしく、私の脳裏から離れない。滲み出てくる涙を抑えることができなかった。もし、その子の母親と同居の男が「(虐待を)帰ったらやろうね」とラインでやりとりをしていたとしたら、私は絶対に許すことができない。無抵抗な三歳児に対して、殴り、閉じ込め、煮え湯を浴びせることは、保護者として「あるまじき行為」であり、極悪非道の犯罪である。いったい、この3歳児がどのような罪を犯したというのであろうか。 こうした、親による虐待死は戦前・戦時・戦後、一貫して、根絶されることはなかった。インターネット情報(「子供の犯罪データーべース親による虐待・子殺し」によれば、昭和19年まで11件、昭和20年代33件、30年代39件、40年代322件、50年代374件、60年代111件の事例が記されている。戦時には、大空襲の下、沖縄の防空壕の中、サイパン・バンザイ岬等々で犠牲になった乳幼児も数知れない。平成以後も、最近の10年間で、毎年60人前後の尊い命が失われている(厚生労働省ホームページ)。その要因は「親が親になりきれていない」からだとも指摘されているが、その親の親もまた「親になりきれていない」。すべては大人の責任であることは間違いなく、《成熟した》「文明社会」の未熟さを、悲しく露呈している証しなのである。 
(2016.1.14)


 いったい、いつになったら、このような類の駄文を綴らなくなるのだろうか。またまた昨年には以下の通りである。 
■五歳女児の「叫び」
《ママ、もうパパとママにいわれなくてもしっかりと じぶんからきょうよりか もっともっとあしたはできるようにするから もうおねがいゆるしてゆるしてください おねがいします ほんとうにもうおなじことしません ゆるして》
 上の文は、両親に虐待死させられた(殺された)5歳女児の「反省文」である。ママは25歳、パパは33歳、女児が必死で「ゆるして」と叫んでいるのに、この両親は許さなかった。・・・だから、私もこの両親を許さない。司法はおそらく「懲役5年~10年」の罰を科すだろう。今後10年までの間に更生し、再び社会復帰することを期待するからである。しかし、そうした制裁だけで虐待死の問題が解決するとは思えない。なぜなら、少なくともこの10年余り、虐待死のニュースは後を絶たないからである。
以下は、2006年に綴った私の駄文である。


《最近のニュースによると、生後九ヶ月の乳児を「虐待死」させた二十代の両親に、懲役五年の判決が下ったという。罪名は「傷害致死罪」ということだが、はたしてこの両親は「たった五年間」の懲役でその罪を十分に償うことができるだろうか。
 最も守らなければならない乳幼児の「生存権」が、他ならぬその保護者によって侵され
ているという現状をどのように理解すればよいのだろうか。「虐待死」は、過失でも事故でもない。殺意がなかったとすれば、「懲戒権」(親権)の濫用に当たるのだろう。しかし、子どもは親の「所有物」ではない。自立しているか否かに関わらず、「基本的人権」を付与された「社会人」(社会的存在)であることを確認したい。その人権を守るのは誰か。生後九ヶ月の被害者の立場に立ち、その「無念さ」を代弁するのは誰か。
 「虐待死」の被害者が、①みずからに何の落ち度・過失がない、②加害者に対して全く無抵抗である、③自ら身を守る術がない、という点では、あの「同時多発テロ」「地下鉄サリン事件」の犠牲者と共通している。したがって、加害者の罪は「極刑」に値すると私は思う。
 警察には「民事不介入」の原則があるので、家族間の犯罪を未然に防止することが難しいということであれば、その刑罰をより強化するほかに、この種の犯罪を防止することは不可能ではないだろうか。被害者が「身内」だからといって、加害者の罪が軽減される理由はない。(2006.9.30)》


 当時、〈加害者の罪は「極刑」に値する〉と私は書いたが、「極刑」とは、受刑者を「真人間に生まれ変わらせる」罰である。懲役や説諭、教誨で生まれ変われる者は少ない。受刑者を拘禁し、食物だけを与えて、一切のコミュニケーションを絶つのである。彼が「内省」(内観ともいう)し、自分の行為が誤りであったことに自ら気づくまで、その償いとして何をすべきかがわかるまで、それを実行・実現できるまで、その状態を続けるのである。この刑に終わりはない。自分が犯した罪は、自分で償わなければならないからである。 ・・・はたして、今の刑務官にその刑を科す能力(覚悟)があるか。・・・
 かくて、今回もまた若い両親は「懲役刑」という軽い罪で出所し、虐待が繰り返されることは間違いないだろう。(2018.6.9)


 今年に入ってからも、小4女児を筆頭に「児童虐待」のニュースが後を絶たない。ということは、少なくともこの15年間、児童の基本的人権(生存権)は脅かされ続けているということである。私は3年前に、《その要因は「親が親になりきれていない」からだとも指摘されているが、その親の親もまた「親になりきれていない」。すべては大人の責任であることは間違いなく、《成熟した》「文明社会」の未熟さを、悲しく露呈している証しなのである。(2016.1.14)》と書いたが、実を言えば、大人の都合で子どもの命が奪われる事例は珍しくない。「戦争」の惨禍は言うに及ばず、江戸時代の歌舞伎でも「伽羅先代萩」の竹松、「菅原伝授手習鑑」の小太郎、「熊谷陣屋」の小次郎、「盛綱陣屋」の小四郎たちが、大人の都合で落命するのである。だとすれば「児童虐待」は、日本の社会に連綿と続く陋習に他ならないことを肝銘しなければならない。
 私が小学校に入学した1951年(昭和26年)には「児童憲章」が制定され、児童は
「人として尊ばれ、社会の一員として重んぜられ、よい環境の中で育てられる」ことがあたりまえだと感じてきていたが、子どもにとってそのような「平和」な時代は終わりを告げようとしているのだろうか。「戦後レジュームからの脱却」を図る大人が増えれば増えるほど、子どもたちの未来は暗くなるばかりか・・・。
(2019.3.6)