梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・54

8 認知世界の形成
【要約】
 子どもは、まず言語を学び、つぎにそれを基礎として意味的経験をするようになっていくのではなく、はじめに意味的経験をし、その経験を深めていく途中から、それを基礎として言語の影響を徐々に受けるようになっていくのである。意味的経験がなければ、言語の経験はあっても表面的で弱く、意味の面に及ぶことはできないと思われる。したがって、意味的経験は言語理解にとって欠くことのできない前提であるといわなければならない。 ここでは、意味的経験を支える代表過程の性質について考え、さらに、このような発達初期の意味的経験が認知構造に作用する契機を、象徴作用に求めようと思う。その後、象徴活動から十分に独立する代表過程が、この独立によって高度の範疇化を実現するという事実について考察する。
【感想】
 ここでは「意味的経験は言語理解にとって欠くことのできない前提である」ということが述べられている。ある聴覚障害児の母親が「ついてない」という言葉の意味を理解させるために、その子が欲しがっていた帽子を買いに行ったが、店屋は休業中だった。母親はそのことを知っていたが、わざと休業日を選び、子どもが残念がる様子を見て「ついてないね」と言葉をかけたという。「ついてない」という言葉の理解は「がっかり」という体験を前提としなければ、不可能であるということがよくわかる事例だと思う。
 親の中には、子どもは「話していることのすべてを理解している」「理解していなければ話せるはずがない」と錯覚している人たちもいるようだが、そういう人たちに限って、熱心に「絵本を読み聞かせ」「文字の読み書き」をできるように努力する傾向が強いように思われる。結果、子どもは絵本の文章を暗唱したり、仮名文字、数字、アルファベットを「巧みに」読んだり、書いたりできるのに、肝腎の「日常会話」が成立しないといった問題を抱える子どもが「できあがる」。
 私はここでいう「意味的経験」を「感情の交流」と考えるが、著者は「代表過程」「象徴作用」に求めている。それはどのような内容になるのだろうか。期待を込めて読み進めたい。(2018.7.9)

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・53

■聴力
【要約】
 談話を聞く場合、談話の全体が必ずしも遺漏なく聞きとれるということはなく、また、つねにそうである必要もない。その理由の一つは、談話の行われる状況、談話そのものの置かれている文脈、あるいは広い知識・経験などが、聴取欠損部を補うのに役立つということにある。この種の推定ないし補間のほかに、談話を構成する音声の連鎖パターンからの推定ないし補間も役立っている。
 その言語に熟達している成人では、欠損した音声は、その前後にある音声あるいは音声パターンを手がかりに、充たされるべき音声を高い確率で推定できることが少なくない。この種の推定の過程は。知覚水準で、自動的・無意識・即時的に生じることが多いのである。われわれは日常、談話の音声そのものに注意せず、その意味だけを“聞く”。談話の認知では、音声は“透明”である。
 しかし、不慣れな言語による談話を聞く場合には、事情は一変する。われわれは聴き取りにくさを感じる。音声は小さすぎ、速すぎ、不明瞭に感じられる。この場合は音声は“不透明”である。一つの音声の聞きおとしは、そこでは談話の理解を全面的に妨げることが少なくない。これと類似した事情が、母国語の経験の浅い幼児には起こっていると考えられる。成人ならば聴取に支障のない強さの音声以上の強さのものが彼らにとっては必要であり、成人では十分である聴力が、彼らでは不十分であるかもしれない。音声刺激に対する認知力は、その聞き手にとって、その音声が信号的意味をもつときには、いちじるしく増大し、信号的意味をもたないときは、きわめて低いであろう。談話ないし語を聴くためには、その構成分となっている音声を識別することが必要であるが、さらに音声を容易に識別するために、談話ないし語が信号的意味をもつということが大きな助けになるであろう。 
 このようなわけで、幼児が幼いほど、感覚次元で測られた聴力が正常であるにもかかわらず、難聴的な現象が生じる場合もよく起こるはずである。幼い子どもに必要な聴力は感覚次元ではなく、知覚次元の聴力であるといってもよい。知覚次元に対応する感覚次元の修正を必要とする。事実、現代の聴能学では、聴覚閾と談話聴取能力との関係は、難聴児では大きな個人差があることがみいだされている(Carhart,1946;Hirsh,1951)。


【感想】
 ここでは、自閉症児の「言語発達」を考えるうえで、きわめて重要なことが述べられていると、私は思った。
 ここでいう「聴力」とは、感覚次元で測られた聴力(感度・どれくらい小さい音まで聞こえるか)ではなく、知覚次元の聴力である。「聞く力」には①感度(聴力)、②弁別力(音を聞き分ける力)、③記銘力(聞いて憶える力)、④分析力(音のかたまりを分析する力)、⑤統合力(断片的な音を統合する力)、⑥構成力(不完全な音を修正する力)、⑦聴解力(文章を聞いて理解する力)の過程があるといわれている。
 自閉症児の場合、聴覚過敏があるために(感度の異常があるために)、以後の過程が順調に発達しにくいということが考えられるが、本人の体験記録などを読むと、「ことばは聞こえるが、その意味が理解できない」というような記述がみられる。東田直樹氏の著述にも「母の言葉がいちばんわかりやすい」と書かれてあった。
 その状態は、私たちが「外国語」に接した場合と同じではないだろうか。外国人が話をしていることはわかるが、意味は不明である。なぜだろうか。それは、外国語を日常生活の中で「聞く」という経験が極端に少ないためではないだろうか、と私は思う。とりわけ、外国語で「やりとり」をする機会は皆無に等しいだろう。
 自閉症児の場合も同様に、「声」や「音声言語」で《やりとり》をする経験が、極端に少なかった、ということはないか。一般には「大脳の言語野、聴覚野など」の問題と考えられているが、その定説からは、解決策は生まれない。せいぜい「マカトン・サイン」など視覚的手段に依存するほかはないのが現状なのである。
(2018.7.9)

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・52

■音声識別と発声
【要約】
 音声識別力が、子どもの漸次発達変化していく音韻とその体系化にそって発達することは明らかである。低い発達段階では、一部の音声だけを識別し他の音を無視するとか、特定の音声を彼自身の音韻範疇に従ってまとめたり相互交換したりする、ということが考えられる。
 レネバーグ(Lenneberg,1964)は、60名のダウン症児を出生時から観察し、その言語音声の模倣能力を調べた。彼らの音韻構造が正常児にくらべてきわめて未熟であり、その順調な発達が期待できないことをたしかめ、手本音声に近似する音声を発するためには、非常に複雑な音韻識別力が必要であろうと述べている。
 高い水準の音声識別力を獲得するためには、子ども自身による発声活動、とくに喃語活動と模倣発声活動が不可欠だと一般に考えられているが、この見解に対立する一つの報告がある。
 この子ども(8歳・先天性調音神経障害に原因する無談話症)はかつて喃語活動も音声模倣もまったく行ったことがなく、発声はスイス・ヨーデルのような叫び声に限られ、言語的伝達はまったくできない。しかし、その知能はIQ80~85と推定され、精神医学的検査にも異常は認められなかった。重要な事実は、その談話理解力のほうは年齢相当の水準にあるということである。この子どもは、Does ice cream feel cold your tongue?とか、Is a spider a light animal?というように、かなりむずかしい質問をうけたが、状況の支持なしにかなりよく理解しており、now、later、always、yedterdayなどの語の意味や、能動態と受動態の関係なども理解できる。
 これは、言語の習得が調音活動とは無関係に、感性的学習によって可能であることを示すものである。
 調音神経障害では、調音活動という複雑で微細な下行性神経活動による筋の運動は妨げられているが、感覚系および調音以外の神経中枢に障害はない。中枢過程としては運動反応は習得されていると考えられる。調音神経障害の場合、運動中枢水準での“調音活動”が形成されると考えるとき、両者の機制の共通性はさらに高まる。


【感想】
 ここでは、レネバーグによる2つの報告が紹介されている。一つはダウン症児の音声識別力に関するものであり、もう一つは調音神経障害に原因する無談話症のケースである。 ダウン症児の音声の音韻構造はきわめて未熟だということはわかったが、音声識別力も未熟であるかどうかは判然としなかった。また、調音神経障害、無談話症という障害も私には聞き慣れない言葉だったが、要するに「ことばが出ない」と考えてよいか。脳性まひ児の中にも、発声・発語は困難だが、言語理解は年齢水準に達しているというケースは少なくない。
 したがって、ここで著者が述べていることは、①《音声識別》ができないから《発声》ができない、②《音声識別》ができても《発声》ができない、という二つの場合があるということなのかもしれない。
 自閉症児の場合は、《(自動的な)音声識別》も《発声》もできるが、《音声(言語)理解ができない》と考えてよいか。以下を読み進めることでたしかめたい。
(2018.6.24)