梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・56

■認知と行為
【要約】
 代表機能の最も単純で直接な水準は知覚である。知覚が行為的な経験とどのように因果的に関係しているかについて、二つの対立する見解がある。その一つは、人間の知覚は代表機能によって支えられるが、この機能は、人間においては視覚や聴覚とならんで一つの基本的で生得的な能力であり、行為とは独立した機構であるという見解であって、ウェルナーによって代表される。他方、知覚は行為的経験の媒介を通じて生じ、かつ発達するという見解があるであろう。
《ウェルナーの見解》
 最近、ウェルナーとカプラン(Werner and Kaplan,1963)は、つぎのような意見を提出している。代表機能は“適応の結果”ではなく、あらかじめ用意されたものである。代表機能には象徴活動のような顕現的な外界への働きかけを通じないで発動される静観的性質があり、このような純粋な内的な経験活動の結果として、人間の認知体系は形成される。これが知識である。知識を求める働きは、外界に働きかけそれに影響を及ぼす自分自身も外界から影響を受ける顕現的な行動とは、はじめから異なるものである。それはいかなる先行行為にも原因を求めることができず、これが人間を動物から区別する最大の目印である。動物の行動は、本能的なもの習慣的なものもふくめて、外界の“既成の事実”の反映にすぎないが、人間にとっては、環境は生まれ落ちたときには“無名の世界”であり、動物に与えられているような秩序や方向性はもっていない。このような未成の状態こそ、人間の知識の獲得を可能にさせる要件である。
 対象を発見し、それについて知ろうとするのは人間だけであるが、それには一定の成熟的順序がある。
 第1段階では、対象の表現性の認知が生じる。対象が表現的なものとして認知されるということが、物の対象的認知の出発点である。第2段階では、同じ表現特性を多くの対象にまで拡張して適用することによって、“相貌化”が成立する。第3段階では、意味を伝える意図的行為の形成される時期であり、ここで経験の一つの事項を他の項目で代表させることができるようになる。そして第4段階において、言語的な代表機能が認知で中心的な地位を占めるようになる。


【感想】
 ここで述べられていることは、私にとっては極めて「難解」で、理解不能であった。
まず第一に、「代表機能」ということがわからない。さまざまな対象を知覚するのに「代表機能」に支えられるとはどういうことだろうか。紹介されているウェルナーとカプランの意見も、代表機能は“適応の結果”ではなく、あらかじめ用意されたものである、ということがわからない。知識と、知識を求める働きとははじめから異なる、ということもわからない。知識は、人間と動物を区別する最大の目印である、ということは、人間には知識があるが動物にはない、ということだろうか。
 さらに、対象を発見し、それについて知ろうとするのには「一定の成熟的順序」があるとし、第1段階では、「対象の表現性の認知が生じる」とあるが、「対象の表現性」とはどういうことなのか理解できなかった。
 いずれにおいても理解できないのは、《具体例がない》からだと、私は思うが、先を読み進めることでわかることがあるかもしれない。
(2018.7.30)

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・55

■非言語的な経験
《“内言語”の非言語性》
【要約】
 言語的代表過程が形成されるための要件の一つとして、マイクルバスト(Myklebust,1960)
は、“内言語”なるものを考えている。“内言語”はビゴツキーの“内言”とは異なる概念である。“内言”は談話の内面化ないし思考化であり、概念的思考の実質をなすものであって、5歳ころになってはじめて形成される、高度に言語的な機構である。これに対して“内言語”の“言語”は比喩的な意味しかなく、慣用言語とは直接の関係がない。それは、先天的全聾児のように、聴覚的に与えられる言語について何の経験ももたない者でも、別の感覚的資料の組織化の結果として生じうる、非言語的な代表過程をいうのであり、これによって彼らは“前概念的”な活動を行うことができる。
 しかし、聾幼児では、聴覚的資料が与えられないために、意味的経験の量も質も聴児に劣るから、放置しておくならば、このような前概念は十分発達することがない。そこで、言語訓練の基盤となるのに適し、そのために必要不可欠な“内言語”とはいかなるものか、それを形成するにはどのような教育計画がよいかという問題が、聾教育における基本的な問題として提出されている。
《“内言語”の社会性》
 聾児にきわだっているこのような初期の代表過程の重要性は、一般の聴児においてもかわりがない。聴児の場合には、特殊な訓練を必要とせず、日常経験を基礎に、いつのまにか形成されてしまう。この種の代表過程は非言語的な経験を基礎として形成されることから、比較的個人差のある、個人的な性質を帯びたものとなる。しかしそれは、ピアジェ(Piaget,1952)のいうような、“集団的”に対立する意味での“個人的”な性質をもつものとは考えられない。一つの集団(文化圏)での慣習の多くは、個人が出生後ただちに始められる、ひとしく遭遇し、ほとんど等しい結果を経験するところの、多くの自然現象ないし社会慣行に順応して作られており、また育児者の幼児に対する行為や態度は社会慣習に従っているからである。この意味で、原初的な代表過程にも社会化は進められており、言語が幼児をして個人的な代表過程から、一挙に社会的なそれへと変貌させる“魔力”をもっているわけではない。


【感想】
 著者は「意味的経験は言語理解にとって欠くことのできない前提である」として、ここではその「意味的経験」(非言語的な経験)として、マイクルバストのいう「内言語」をその要件の一つとして挙げている。 
 ここまで読んで、①「内言語」は「内言」とは、異なる概念であること、②「内言語」には「社会性」があること、についてはわかったが、具体的にどのような内容のものであるか判然としなかった。ただ、「日常経験を基礎に、いつのまにか形成されてしまう」というものだが、聴覚障害児の場合は「特殊な訓練」が必要であるということである。
 私自身、10年間、聴覚障害児教育にかかわり、難聴幼児の「言語指導」を行った経験があるが、「聴覚学習」(聴能訓練)を重ねるだけで「言語能力」が向上したように思われるので、「内言語」の形成については、取りあげて考えることはなかった。
 また、自閉症児は、聴児だが、「内言語」が「日常経験を基礎に、いつのまにか形成されてしまう」ようには思えない。その《日常経験》とは、具体的にどのような経験なののだろうか。先を読むことで何かがわかるかもしれない。
(2018.7.10)

おかしな話・純金製茶碗の盗難

 東京のデパートで開かれていた「大黄金展」の会場から1040万円の純金製茶碗が盗まれた。犯人Aはこの茶碗を古物買い取り店Bに180万円で売却した。古物買い取り店Bは同じ日に古物買い取り店Cに約480万円で転売した。
 したがって、Aは180万円、Bは約300万円、Cは約560万円をゲットしたことになるが、すでにAは逮捕されているので、その180万円は使わない限り没収されるだろう。Cも手元にある茶碗は押収され1円も残らない。では、Bの約300万円はどうなのか。茶碗盗難のニュースは知れわたっているのだから、Bはそれが盗品と知ったうえでAから買ったことになる。
 「読売新聞オンライン」(4月17日)には、以下の記述があった。「古物営業法では、古物商は盗品の疑いがある物が持ち込まれた場合、直ちに警察官に申告する義務があると定められている。盗品と知りながら買い取った場合、盗品等有償譲り受け罪に問われ、10年以下の懲役または50万円以下の罰金が科される恐れがある。
 今回の事件では、警察から古物商に対し、茶わんが盗まれたとの情報提供はなかったが、事件当日の午後2時以降、新聞やテレビが窃盗事件を速報していた。」
 さしあたっては、Bに「盗品等有償譲り受け罪」の疑いが生じるが、そうだとしても罰金50万円で済むのなら、250万円「儲かった」ことになる。
 全く、おかしな話ではないか。 
(2024.4.23)