梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「嘱託殺人罪」・《罪悪感の日々》

 東京新聞朝刊(29面)に〈難病長男殺害の妻を刺殺 「嘱託」で夫起訴 執行猶予5年 傷癒えず 罪悪感の日々「やっと楽に」〉という記事が載っている。その内容は、生きることの意味の重さ、深さをひしひしと感じざるを得ない人間模様で、どんな小説、ドラマよりもリアルに迫ってくる。〈殺害された妻のH子さん(65)は五年前、全身が動かせなくなる難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)に苦しむ長男Y男さん=当時(40)=に懇願され、人工呼吸器の電源を止めて殺害、有罪判決を受けて執行猶予中だった。県警によると、S被告は「事件(長男殺害)の後、妻はうつ病になり、日頃から死にたいと言っていた。(殺害)当日も言われた」と供述。犯行日の午前中は、夫婦で心中をしようと市内の相模湖方面に車で出かけたが、死にきれず、娘二人にあてた自筆の遺書も残されていた〉〈Y男さんは、唯一の意思疎通の手段となった眼球の動きで文字盤を指し、「死にたい」「まだ待たせるのか」などと繰り返し懇願。H子さんは04年8月、人工呼吸器の電源を切り、自らも手首を切って自殺を図った〉
 要するにS被告(66)一家は、妻、長男、娘二人の四人家族、どこでも見かけられる一般家庭であったのだが、悲劇の始まりは長男の難病罹患、その断末魔を見るに見かねて母が犯した「嘱託殺人」(自殺未遂を含む)、加えて、以後「罪悪感の日々」で「うつ病」になった妻との心中行、目的を遂げられなかった夫の「嘱託殺人」という《悲劇の連鎖》が、この事件の核心である。H子さんと親しかった女性は「罪の意識はずっと消えなかったかもしれない。悲劇の連鎖を断ち切る手段はなかったのか」とやりきれない様子で話した〉(前出・新聞記事)そうだが、まず第一に、Y男さんの「懇願を聞き入れた」(基本的人権を尊重した)H子さんの行為が「嘱託殺人罪」に成ってしまうという社会の(法的)判断に問題がある、と私は思う。Y男さんは人工呼吸器に助けられながら「生きる」ことよりも、自力で死ぬことを望んだのであり、それ(尊厳死)はY男さんの「基本的人権」ではないだろうか。本来なら、Y男さんの「基本的人権」(健康で安全な生活をする権利)を守るべき医療機関・関係者が、人工呼吸器装着という先端技術の導入によって、全く正反対の結果(拷問に近い苦痛)を強いていることに気づかなければならない。(法的解釈はともかく、社会常識では)人工呼吸器を付けることも外すこともY男さん自身の判断であったとすれば、H子さんの行為は、本人の希望(自死)を助けた(介助した)だけのこと、殺人には当たらないのではないか。だがしかし、H子さんは「有罪」、(嘱託)殺人犯として「罪悪感の日々」を送ることになった。その結果が、「うつ病」の発症、誰が考えても当然のなりゆきであろう。でも、H子さんは「罪を償う日が明けるまで」(執行猶予5年の刑期が終わるまで)頑張った。S被告夫婦は誓ったに違いない。「もういいよね。二人で、Y男のところに逝こう」、しかし、その目的はまたもや未達成、S被告だけが「この世の地獄」に残された。今回もまた、社会の(法的)判断によれば、S被告の有罪は確実、(すでに高齢者となった)彼もまた、今後「罪悪感の日々」を過ごすことになるのだろうか。(つい最近高齢者となった)私の涙は止まらない。(2009.11.3)