梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「考えない練習」(小池龍之介)を読んで考える・《1》

 「考えない練習」(小池龍之介・小学館・2010年)という本を読んで「考えた」。「我思う、故に我あり」(ルネ・デカルト)とか、「人間は考える葦である」(ブレーズ・パスカル)とかいう言葉があるように、人間の特長は「考える」ことにあるということは常識である。昭和40年代、ある小学校の校長が子どもたちに向かって、以下のような講話をしていたことを思い出す。「みなさん、私たちの学校にはたくさんの《かえる》がいます。どんな《かえる》でしょうか。(間を置いて)そうです。《考える》という《かえる》です。みなさんは、毎日の生活や勉強のなかで、よーく考えてください」。子どもたちは、口を開けてポカンと聞いていたが、ともかくもその小学校の学校教育目標は「考える子」であった。ことほどさように、「考える」ことの重要性は、現代でも強調されていると思われるが、今、なぜ「考えない練習」なのか、そんな思いでページを開くと、「はじめに」の冒頭でいわく、〈私たちが失敗する原因はすべて、余計な考えごと、とりわけネガティブな考えごとです〉。なるほど、著者は「考えること」すべてを否定したわけではない。「余計な考えごと」「ネガティブな考えごと」をしない練習を説いているのである。しからば、「余計な」とは、「ネガティブな」とは、どんなことだろうか。以下は、私の《愚考》である。
1 「余計なこと」とは、もう終わってしまった過去のこと、まだ起こりもしない未来の ことである。私たちが「居る」のは現在であり、要するに、「今、当面していること」 だけを考えればよいのである。
2 「ネガティブなこと」とは、「悲観」である。その中には、「不満」「不安」「不信」 など、要するに、「思い通りにならないこと」(苦)への「怒り」「憤り」「嘆き」「迷い」 が含まれる。
 著者は、それらの原因は「脳」にあると説く。「脳」という情報処理装置は、「より強い刺激を得ようとして、私たちの《心》を暴走させる」とのことである。大切なことは、(それをストップして)「心」が「脳」をコントロールできるようにすることである。 そのためには「五感を研ぎ澄ませて《実感》を強める」ことが効果的である。したがっ て、「考えない練習」とは、「目、耳、鼻、舌、身の五感に集中しながら暮らす練習を経て、さらには思考を自由に操る練習」に他ならない。
 なるほど、なるほど、仏僧の修行とは、畢竟。そのような内容であったのか。凡夫に過ぎぬ私でも、そのような「練習」が可能であろうか。次章を読み進めようという意欲が湧いてきた。(2013.5.15)