梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・47

《象徴遊びにおける発声行為》
【要約】
 象徴遊び(“ふりをすること”“見せかけること”)に発声行為が伴うとき、その象徴的な特性はいっそう明瞭になる。
 ピアジェ(Piaget,1945)による観察事例をみる。
⑴Jという子どもは、1歳6ヶ月に、石鹸も水もその場になく、それらに関連のまったくない状況のもとで、手を石鹸で洗うかのようなふりをしながらavon[savon](石鹸)といった。
⑵同じJは、1歳8ヶ月のとき、紙など食べられないものを食べるふりをしながら、tres bon(とてもおいしい)といった。
 これらの場面で子どもが利用したものは、過去の彼の経験のなかにあり、発声をふくむその遊びは、もとの行為文脈を再現している。現在の行為は一種の非現前事象の記号になっている。しかし、この象徴遊びは、もとの行為の文脈を再現しているだけだが、さらに高い象徴的水準が1歳児にも生じてくる。
⑶Jは1歳9ヶ月に、貝殻を見て、まず、tasse(コップ)といい、そのあとそれを拾い上げて飲むふりをしている。
 この場合は、子どもの用いた記号ばかりでなく、記号の意味するものまで、もとの文脈から離脱している。このように、象徴活動としての発声行動が動作から独立し、かえって動作を調整し指令する側に立ち始めたということは、象徴活動の“精神化”ないし“思考化”ということを示しており、感覚運動期から脱皮する日の近いことを告げているのである。この問題は言語機能の自己行動調整の問題に密接に関連している。


【感想】
 ここでは、ふりをする、見せかけるといった「象徴遊び」の中で行われる「発声行為」が、動作から独立し、動作をコントロールするようになる事例が、Jという1歳児の観察を通して紹介されている。
 子どもの発声が、「感情の表現」から、語の使用によって「思考の手段」になっていくというプロセスが、たいへんわかりやすく説明されていたと、私は思う。
 予定では、抄読はこの章までと考えていたが、日本語の助詞、助動詞がどのようにして発現してくるかについては、まだ判然としないので、次章以降も読み進めてみたい。
(2018.6.22)

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・46

■その他の音声的象徴行動
【要約】
 身振りと音声模倣のほかに、重要な二、三の初期の音声的象徴行動がある。これらは、音声模倣と発達的に接続する関係にあり、本格的な言語習得過程の先行条件となるものである。
《半個人的な言語的表示》
 それは形式的にだけ言語であり、機能的にはなお個人的な性質の強い象徴行動であり、ピアジェ(Piaget,1945)はこれを“半個人的な言語的表示”とよんだ。
⑴Lという子どもは、1歳3ヶ月のとき、avoua[au revoir](さよなら)と発声するようになったが、これは、去る人・部屋を去る自分・シートから立ち上がる自分・ドアに手をぐれる自分、を表示する。Tという子どもは、1歳5ヶ月~1歳7ヶ月のとき、a plus(もうたくさん)と発声するようになったが、これは、去ること・投げ出すこと・ひっくりかえされたもの・遠くにあるもの・積み木・対象を手渡し投げ返してもらいたい欲求・人が持っているものへの欲求・何ごとかを再び始めたい欲求などを表示する。
⑵Jという子どもは、1歳1ヶ月にはじめて、イヌに対してvouaouを用い、1歳2ヶ月の中頃になると、家のバルコニーから見えるすべての生物および無生物にこれを用いている。また、はじめ祖父だけに用いていた呼び声panana[grand papa]を“祖父がいるならば自分に与えてくれるであろうものへの要求”に用い、のちには、拒否一般に用いるようになった。このような“語の使用”は、特定の人(家族の一部または全部)にだけ伝達として役立つに過ぎず、真の意味での語の使用には至っていない。
《音象徴》
 音声そのものが一つの感性的な性質を表すものとして認知されることを“音象徴”という。これは聞き手の属する言語地域社会の差異にかかわりなく、きわめて普遍的な性質をもつもので、各人の経験を超えた人間の感性面での本具の機能とみなされる。たとえば、共感覚説がこれであって、一つの感性領域での認知が、他の感性領域での一定の認知をつねに伴うことが共感覚である。たとえば、ある種の声は“黄色”として認知される。
 音象徴認知には、言語の差異を超えた普遍性がある。たとえばpingという音声型とpongという音声型について、それぞれがどのような性質を示す対象に結びつくかを成人について調べてみると、大部分の人は、pingには“小さいもの”を結びつけ、pongには“大きいもの”を結びつけるのである。この二つの音声型は母音iとoが異なるだけだから、iが小さい性質を象徴し、oが大きい性質を象徴すると考えられるのである。このような、物の性質と音声との対応関係は、必ずしも経験を通じて学習されたものとはいえない。実際、語はそのような物の性質と対応してはいない。
 1歳児が上記の母音性の音象徴行動の特性をそのまま示した例がある。人形用の小さな椅子に対してある子どもはまったく自発的にlikillとよび、普通の椅子をlakall、安楽椅子をlulullといったり、すべての丸いものにm音を用いた子どもが、大きい皿や丸テーブルはmum、時計や中皿をmem、月(それは子どもにとって小さく見える)をmimとよんだという観察報告(Stern und Stern,1907)がある。
 このような性質の音象徴行動に平行して、つぎのような別種の音象徴行動がみられることがある。それは、物の大きさを音声の大きさや一つの音声型の反復に対応させることである。たとえば、“非常に大きい”ということを大きな声で表したり、オーキー、オーキーと反復で表したり、大きいものを低く長い音声で表し、小さいものを高く短い音声で表したりする。大きい石は低い声で、口や目を丸くして発声し、小さい石は高く短い“可愛らしい声”で発声したという例も報告されている(Neugebauer,1914;Stern ind Stern,1907)。 このような一見信じがたい音象徴の早期出現は、子どもの音声的・言語的経験と関係づけるには、子どもがあまりにも幼すぎ、手本を成人が示すということも考えられないので子どもが本来もつ性質に帰せられている。
 ランガー(Langer,1960)は、その代表的な提言者といってよい。彼女は、言語発達にとって“言語的直観”が不可欠であり、この直観は、喃語本能、模倣衝動、本能的な音声への関心とともに、“表現に対するはげしい感受性”によって形成され、そのうちどの一つが欠けても、“言語的直観”は生じてこないと考える。そして最後の要因についてこう述べている。
 “(表現に対する激しい感受性は)真に、人間の相互交渉において、きわめて顕著な光を放つ精神の《高次の機能》なのである。・・・幼年期の独特の感受性は、ふつう、正確な色、音声などに対する注意という題目のもとに扱われている。しかし、はるかに重要なことは、純粋に視覚的な、また聴覚的な諸形式のなかへ、漠然とした種類の意味を余分につけてよみ込もうとする子どもの傾向性であると私は考える。幼年期は共感覚の旺盛な時期であって、音声と色と温度、形態と感情は、ある種の共通性をもち、それによって、ある母音はある種の色であり、ある音調は大きいかまたは小さく、低いかまたは高く、明るいかまたは暗くもありうる”(Langer,1960)。  


【感想】
 ここでは、子どもの音声的象徴行動のうち、「半個人的な言語的表示」と「音象徴」について述べられている、「半個人的な言語的表示」とは、要するに、特定の人(家族の一部または全部)にだけ伝達として役立つ「語の使用」であり、本格的な言語習得過程の先行条件として、きわめて重要であるということがよくわかった。
 「音象徴」とは、音声そのものが一つの感性的な性質を表すものとして認知されることである、と述べられており、それが聞き手の属する言語地域社会の差異にかかわりなく、きわめて普遍的な性質をもつものである、ということである。
 私が思い浮かべたのは「キャー!」という悲鳴、「アッ!」という驚き、「エッ?」という問い返し、などは万国共通であり、そうした音声を発するかどうかが、本格的な言語習得のために、きわめて重要だと思ったのだが・・・。
 ここで述べられていることは、発声の「あり方」自体が、「色」「温度」「形態」を象徴するということであり、著者がいうように「一見信じがたい」という感想を持った。
 私の興味関心は、むしろ自閉症児の言語習得過程において、感情を表現する「発声」が生じていたかどうか、という一点であり、(残念ながら)ここではそれを明らかにすることができなかった。(2018.6.21)

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・45

■言語音声の習得(省略)
■オノパトペ
【要約】
 “オノパトペ”は、人間の音声以外の音や声(物音や動物の声など)に対する模写的な音声を意味する。オノパトペはその機能において、音声模倣とはかなり違っており、言語獲得以前の子どもの場合には、とくにそうである。
 幼い子どもは、音声模倣その他の困難な学習を通じて、言語という集団的記号体系の形式と用法を習熟するのに、多くの時間と労力を費やす。彼らは身振りや表情その他の行為を利用して、その意図を伝達しようと努める。オノパトペも、身振りや表情と機能は似ている。しばしば“音声的身振り”といわれている。
 いずれの時、いずれの国にも、子どもの初期談話のなかにオノパトペが多数ふくまれている。
 ひとりひとりの子どもはどのようにしてオノパトペを用いるようになるのだろうか。
 パジェットの“音声身振り説”によれば、オノパトペは身振りと共通の模写活動が口腔内に生じたものにほかならない。
 レオポルド(Leopold,1939)は、オノパトペをその発生ルートに従って、
⑴一次現象 非言語音の直接の模写
⑵二次現象 一言語の標準的話し手(通常は母親)から習得された慣用型
 にわけた。以下、これらを“一次オノパトペ”、“二次オノパトペ”とよぶ。
《一次オノパトペ》  一次オノパトペは、ほぼ0歳10ヶ月~0歳11ヶ月から、動作の模写的身振りと平行して生じることが多い。たとえば、自動車や飛行機の音、物売りなどの人声、鳥やイヌの鳴き声が主であり、本物によく似た音調とリズムをもつのがその特徴であり、即時反響的・自動的である。
 しかし、通常の子どもの環境では一次オノパトペは実際には起こりにくいと考えられる。たいていの場合、そばに育児者がおり、子どもに音声で話しかけているのである。生粋の一次オノパトペというものは、けっして生じないととはいえないが、きわめてまれであり、一次的に形成されたものも早晩、二次性に転化することを余儀なくされていると考えなければならない。
 オノパトペが一次性か二次性かを判断するのに重要なことは、子どもが実際に日常その現物に接し、それが発する音声を聞く経験をもっているかどうかということである。子どものオノパトペから一次性のものを発見するには、綿密な条件の統制と周到な追跡観察とがともに必要なのである。
《二次オノパトペ》
 子どもの一次オノパトペに対して、育児者がこれを“翻訳”したものが二次オノパトペである。育児者の用いるオノパトペには、慣用型がおびただしくふくまれている。子どもにとって、まったく外から与えられる記号としての慣用オノパトペを多数習得するのである。慣用オノパトペは、それが表示する元の事物の音響特性と類似している。日本のオノパトペ語のいくつかについて、そのホルマント構造を比較した結果によると、ブンブン(飛行機)、トントン(戸をたたく)、カンカン(鐘の音)、メーメー(ヤギ)、リンリン(鈴)などは、原音との間にかなりの類似性が認められといるという(黒木.1958)。 
 二次オノパトペの形成は“育児語”に関連して後述する。
《裏声》
 子どものオノパトペには、ときおり裏声が用いられる。これは、子どもが好み、愛情を感じている対象に対して生じるようである。レオポルドは、彼の子どもが1歳0ヶ月にイヌの鳴き声を裏声で模写した例をあげ、これは一次オノパトペであるとともに、子どものイヌに対する感情の表現であると解釈している。しかし、子どもの用いる裏声は、育児者(女性の高い声)からの影響を受けていると考えられる。
 オノパトペが慣行の使用範囲を超えて過度に拡張される現象(般用)については、のちに扱う。


【感想】
 ここでも(私にとっては)きわめて興味深い内容が述べられている。
 「オノパトペ」とは、《人間の音声以外の音や声(物音や動物の声など)に対する模写的な音声》のことであり、一次オノパトペと二次オノパトペがある、ということである。 一次オノパトペは、0歳10ヶ月から0歳11ヶ月以降、動作の模写的身振りと平行して生じることが多く、それは周囲の物音(自動車などの機械音、物売りなどの人の声、動物の鳴き声など)によく似た音調とリズムをもち、即時反響的・自動的である。《しかし、通常の子どもの環境では一次オノパトペは実際に起こりにくい》。なぜなら、たいていの場合、そばに育児者がおり、子どもに音声で働きかけているからである。 
 著者は「生粋の一次オノパトペというものは、決して生じないとはいえないが、きわめてまれであり、一次的に形成されたものも早晩、二次性に転化する」と述べているが、その《きわめてまれな》場合こそが、自閉症児の「独り言」ではないか、と私は思うのである。これまで私は、自閉症児の「独り言」は《音声模倣》だと思っていたが、それは《音の模写》に過ぎないということに気がついた。なるほど、テレビのコマーシャルでも、車内放送のアナウンスでも、彼らは「物音」として感じ、それを模写していたのか。「模倣」には、モデルへの憧れ、愛着という心情が伴うが、「模写」は反響的・自動的な再現に他ならない。そこに隠れている心情は「どうだ!」という「見せびらかし」にも似た自己顕示(欲)ではないだろうか。私の知る自閉症の青年は、テレビ番組のアナウンスを巧みに「模写」し、裏声でアニメの主題歌を歌う。
 要するに、自閉症児の「独り言」は、一次オノパトペそのものだと考えれば、その謎が解ける。彼らは、言語発達初期において、周囲の言語音を「物音」としてしか認識できなかった。それが「通常の子どもの環境」に置かれてなかったためか、それとも、通常の環境に置かれていたにもかかわらず、であったかどうかは、今となってはわからない。
 しかし、「テレビに相手をさせすぎた」「本を読み聞かせすぎた」などという育児者の反省もよく聞かれるので、当時の環境の実態を正確に把握することがきわめて重要であると、私は思った。(2018.6.20)