梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・45

■言語音声の習得(省略)
■オノパトペ
【要約】
 “オノパトペ”は、人間の音声以外の音や声(物音や動物の声など)に対する模写的な音声を意味する。オノパトペはその機能において、音声模倣とはかなり違っており、言語獲得以前の子どもの場合には、とくにそうである。
 幼い子どもは、音声模倣その他の困難な学習を通じて、言語という集団的記号体系の形式と用法を習熟するのに、多くの時間と労力を費やす。彼らは身振りや表情その他の行為を利用して、その意図を伝達しようと努める。オノパトペも、身振りや表情と機能は似ている。しばしば“音声的身振り”といわれている。
 いずれの時、いずれの国にも、子どもの初期談話のなかにオノパトペが多数ふくまれている。
 ひとりひとりの子どもはどのようにしてオノパトペを用いるようになるのだろうか。
 パジェットの“音声身振り説”によれば、オノパトペは身振りと共通の模写活動が口腔内に生じたものにほかならない。
 レオポルド(Leopold,1939)は、オノパトペをその発生ルートに従って、
⑴一次現象 非言語音の直接の模写
⑵二次現象 一言語の標準的話し手(通常は母親)から習得された慣用型
 にわけた。以下、これらを“一次オノパトペ”、“二次オノパトペ”とよぶ。
《一次オノパトペ》  一次オノパトペは、ほぼ0歳10ヶ月~0歳11ヶ月から、動作の模写的身振りと平行して生じることが多い。たとえば、自動車や飛行機の音、物売りなどの人声、鳥やイヌの鳴き声が主であり、本物によく似た音調とリズムをもつのがその特徴であり、即時反響的・自動的である。
 しかし、通常の子どもの環境では一次オノパトペは実際には起こりにくいと考えられる。たいていの場合、そばに育児者がおり、子どもに音声で話しかけているのである。生粋の一次オノパトペというものは、けっして生じないととはいえないが、きわめてまれであり、一次的に形成されたものも早晩、二次性に転化することを余儀なくされていると考えなければならない。
 オノパトペが一次性か二次性かを判断するのに重要なことは、子どもが実際に日常その現物に接し、それが発する音声を聞く経験をもっているかどうかということである。子どものオノパトペから一次性のものを発見するには、綿密な条件の統制と周到な追跡観察とがともに必要なのである。
《二次オノパトペ》
 子どもの一次オノパトペに対して、育児者がこれを“翻訳”したものが二次オノパトペである。育児者の用いるオノパトペには、慣用型がおびただしくふくまれている。子どもにとって、まったく外から与えられる記号としての慣用オノパトペを多数習得するのである。慣用オノパトペは、それが表示する元の事物の音響特性と類似している。日本のオノパトペ語のいくつかについて、そのホルマント構造を比較した結果によると、ブンブン(飛行機)、トントン(戸をたたく)、カンカン(鐘の音)、メーメー(ヤギ)、リンリン(鈴)などは、原音との間にかなりの類似性が認められといるという(黒木.1958)。 
 二次オノパトペの形成は“育児語”に関連して後述する。
《裏声》
 子どものオノパトペには、ときおり裏声が用いられる。これは、子どもが好み、愛情を感じている対象に対して生じるようである。レオポルドは、彼の子どもが1歳0ヶ月にイヌの鳴き声を裏声で模写した例をあげ、これは一次オノパトペであるとともに、子どものイヌに対する感情の表現であると解釈している。しかし、子どもの用いる裏声は、育児者(女性の高い声)からの影響を受けていると考えられる。
 オノパトペが慣行の使用範囲を超えて過度に拡張される現象(般用)については、のちに扱う。


【感想】
 ここでも(私にとっては)きわめて興味深い内容が述べられている。
 「オノパトペ」とは、《人間の音声以外の音や声(物音や動物の声など)に対する模写的な音声》のことであり、一次オノパトペと二次オノパトペがある、ということである。 一次オノパトペは、0歳10ヶ月から0歳11ヶ月以降、動作の模写的身振りと平行して生じることが多く、それは周囲の物音(自動車などの機械音、物売りなどの人の声、動物の鳴き声など)によく似た音調とリズムをもち、即時反響的・自動的である。《しかし、通常の子どもの環境では一次オノパトペは実際に起こりにくい》。なぜなら、たいていの場合、そばに育児者がおり、子どもに音声で働きかけているからである。 
 著者は「生粋の一次オノパトペというものは、決して生じないとはいえないが、きわめてまれであり、一次的に形成されたものも早晩、二次性に転化する」と述べているが、その《きわめてまれな》場合こそが、自閉症児の「独り言」ではないか、と私は思うのである。これまで私は、自閉症児の「独り言」は《音声模倣》だと思っていたが、それは《音の模写》に過ぎないということに気がついた。なるほど、テレビのコマーシャルでも、車内放送のアナウンスでも、彼らは「物音」として感じ、それを模写していたのか。「模倣」には、モデルへの憧れ、愛着という心情が伴うが、「模写」は反響的・自動的な再現に他ならない。そこに隠れている心情は「どうだ!」という「見せびらかし」にも似た自己顕示(欲)ではないだろうか。私の知る自閉症の青年は、テレビ番組のアナウンスを巧みに「模写」し、裏声でアニメの主題歌を歌う。
 要するに、自閉症児の「独り言」は、一次オノパトペそのものだと考えれば、その謎が解ける。彼らは、言語発達初期において、周囲の言語音を「物音」としてしか認識できなかった。それが「通常の子どもの環境」に置かれてなかったためか、それとも、通常の環境に置かれていたにもかかわらず、であったかどうかは、今となってはわからない。
 しかし、「テレビに相手をさせすぎた」「本を読み聞かせすぎた」などという育児者の反省もよく聞かれるので、当時の環境の実態を正確に把握することがきわめて重要であると、私は思った。(2018.6.20)

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・44

《音声模倣と自発的使用》
【要約】
 上述の問題は、模倣された音声が子ども自身の自発的で、ある程度その場に適合した(意味的な)談話の形成にどのように寄与していくのかという、言語発達問題の核心につながっている。ここには顕現的な音声模倣とその音声の意味的―自発的な使用との発達的な関係だけでなく、観察学習の場合もふくまれている。
 岡本(1961)は、Nという女児を追跡観察して、きわめて興味のある事実を報告している。0歳10ヶ月ごろまでは喃語が意味をもつようになり、そののちに、その音声模倣ができるようになる。これに対して、喃語中にない音声型は、まず模倣的に習得され、その後に意味的となる。さらに、理解としてのみ存在し、一度も模倣されず、直接的自発的になる音声型は1歳中期になって増してくる。岡本はこれらの事実に基づいて、1歳期における語彙の急激な増大は、模倣機能と意味理解の能力の増大に負うところが大きいと述べている。一般に、模倣から自発までの期間は後期ほど短くなり、1歳2ヶ月ごろからは同時形成の場合が生じてきて、漸次優勢となる。


【感想】
 資料として提示されている図「模倣発声と自発的発声との期差」(岡本,1962)を見ると、以下のことがわかる。
*「マンマ」という音声は0歳7ヶ月時に喃語として自発的発声、以後、0歳8ヶ月時に食物の意味を表すようになり、0歳9ヶ月時の最初の模倣的発声をした。 
*「ニャンニャン」も0歳7ヶ月に喃語として自発的発声、以後、0歳9ヶ月時に四つ足の意味を表すようになり、0歳10ヶ月時に最初の模倣的発声をした。
*「チー」(尿意)は0歳9ヶ月時に最初の模倣的発声をし、0歳11ヶ月時に最初の自発的発声をした。
*「バーバ」(祖母)は0歳10ヶ月時に最初の模倣的発声をし、0歳11ヶ月時に最初の自発的発声をした。
*「タイタイ」(入浴)は0歳11ヶ月時に最初の模倣的発声をし、1歳1ヶ月時に最初の自発的発声をした。
*1歳1ヶ月以降は「ネンネ」(寝る)、「トッターツ」(一つ二つ)、「メ」(禁止)、マミマ(豆)、「ミミ」(耳)、「ハイシハイシ」(すもう)、「バップバップ」(後ろへ後ろへ)、「オンリン」(降りる)、「ハナハナ」(鼻)、「アチアチ」(暑い)、「ネータン」(姉)、「パンプ」(パンツ)、「トーパンプ」(父のパンツ)、「ビーカック」(ビスケット)、「ココココ・タン」(ここへ降ろせ)、「ベトベト」(濡れている)「アイマイ」(危ない)などという音声が、最初の模倣的発声が極めて短期間(もしくは同時に)で、自発的な発声に変わっている。
 著者は以上を「きわめて興味ある事実」と評しているが、私も同感である。特に、「模倣から自発までの期間は後期ほど短くなり、1歳2ヶ月ごろからは同時形成の場合が生じてきて、漸次優勢となる」という実態は一目瞭然であった。子どもが模倣するためには、そのモデルが不可欠であり、育児者が適切な(子どもが模倣しやすい)モデルを示していたかが問われることになるだろう。また、「マンマ」「ニャンニャン」「バーバ」などの名詞に加えて、「ネンネ」「オンリン」などの動詞、「アチアチ」「アイマイ」などの形容詞、「ベトベト」などの形容動詞の萌芽も見られる。とりわけ「メ」という禁止句、「トー・パンプ」「ココココ・タン」といった二語文が模倣・自発されていることに私は注目する。「メ」には「ダメ《だよ》」、「トー・パンプ」には「父さん《の》パンツ」、「ココココ・タン」には「ここ《に》降ろ《せ》」といった助詞・助動詞の《意味》が隠れているからである。子どもは意味の方を先に理解して、そのあと音声表現を(「模倣」として)始めるのだろうという「事実」がわかったような気がする。
 岡本氏のサンプルでは、残念ながら、助詞・助動詞の「模倣的発現」「自発的発現」を確認することはできなかったが、今後を読み進めることで、何かがわかるかもしれない。
(2018.6.19)

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・43

《音声模倣と意味》
【要約】
 ギョーム(Guillaume,1925)は、音声模倣はその音声が子どもにとって意味ないし意味の縁辺を伴っているときだけ生じるのであり、意味からまったく離れた音声の模倣ということはありえないという。レオポルド(Leopold,1939)も、自己の追跡観察を基礎として、模倣される音声は意味の理解できるものに限られていると述べ、ピアジェ(Piaget,1945)も、意図的な音声模倣では、それが子どもにとって新しい音声である場合でも、何らかの意味理解を前提としているといっている。レネバーグ(Lenneburg,1964)は、ダウン症の子どもについて、その初期の音声模倣を追跡した。彼はダウン症児の知的発達過程は、正常児のそれを引き伸ばしたもにであるとの仮定のもとで、彼らの音声模倣の発達過程も、正常児のそれを拡大してみせてくれていると考えている。その結果によると、音調やストレスのパターンは比較的容易に模倣されるが、調音面の模倣は再三の練習も効果がないとし、調音面の模倣ができない理由として、意味理解の欠如をあげている。調音面の模倣には“非常に特別な型の理解”が必要であろうという。
 一方、チャーチ(Church,1961)は、子どもはその意味を理解できないときだけ模倣するのであると述べており、ルイス(Lewis,1951)は、音声模倣ははじめは意味の理解される音声にだけ生じるが、音声模倣の成功が子どもに満足感を味わわせることによって、この模倣傾向は異常に活発となり、意味の伴う音声の範囲を超えるという。ただし、これはルイスのいう“潜伏期”の終わり(0歳10ヶ月)以後のことである。


【感想】
 ここで興味深かったのは、ダウン症児の初期の「音声模倣」を追跡した結果、「音調やストレスのパターンは比較的容易に模倣されるが、調音面の模倣は再三の練習も効果がない」ということがわかった、というレネバーグの指摘である。
 もし、自閉症児の初期の「音声模倣」を追跡したら、どのような結果になるだろうか。私の推測では、おそらく「音調やストレス」よりも「調音面」の模倣の方が先に生じると思われる。「音調やストレス」は感情の表現であり、それを模倣するということは、育児者との間で「感情の交流」が始まった証となる。レネバーグが仮定したように、ダウン症児の言語発達は正常児と同じ経過をたどる。彼は「(ダウン症児が)調音面の模倣ができない理由として意味理解の欠如をあげている」が、私は《聴覚的弁別力》の欠如と《構音器官》の機能不全が影響していると思う。
 著者は、音声模倣と(言語の)意味との関連を考察しているが、子どもにとっては《誰の音声を》模倣するかということの方が重要ではないだろうか。「パパも」「パパと」「パパの」「パパに」「パパは」などを模倣するとき、子どもは「も」「と」「の」「に」「は」という助詞の意味を理解して模倣しているとは思えない。生活の様々な場面の中で、周囲の大人が使う音声言語を《習慣》として模倣していくのではないだろうか。模倣には、「○○のようになりたい」「○○のようになれた」という憧れや達成感が伴わなければ、意味がない。子どもは模倣すること自体に(それぞれの)《意味》を見出しているのではないか、と私は考える。(2018.6.18)