梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・30

【要約】
 現在過去未来が相対的な関係だということを確認した上で、次に運動の相対性という問題を考えてみる。
● 鳥が(飛んでいく)
 この場合は対象である鳥が動いており、話し手は静止している。
● 森や林や田や畑 あとへあとへと(飛んでいく)。
 この場合は対象は静止しているのに、話し手が汽車に乗って動いているので、目には対象が動いているように見える。
 運動を表現するにあたって、対象と話し手の関係をひっくりかえし、話し手の動きを対象の動きに動きにうつしかえたかたちで表現する「汽車の旅」のやりかたを、舞台装置に応用すると、次のような図(注・クリちゃんがおじいさんと汽車の座席に座って、窓の外を眺めている。背景の窓には景色が描かれており、それが次から次へと移動していく装置がある)になる。観客が現実に見るのは、舞台の上の静止した汽車と、その背景として動いている「森や林や田や畑」である。観客は鑑賞にあたってこの運動関係を観念的にひっくりかえし、背景は動かないもの、汽車そのものが動いているものと意識する。
 《過去から現在への対象の変化は、現実そのものの持つ動きである。これを、言語は、話し手自身の観念的な動きによって表現する》。ここに、言語における「時」の表現の特徴があるのである。現実の話し手にとって過去である存在を、現在形で表現するのだから、現在形は「時」と関係がないという結論を出す学者は、話し手自身の動きを理解していない。話し手と同じ時点にあるならば、それはすべて現在の関係になる。話し手が過去の時点に自分を置いて過去の存在に接するなら、その関係もやはり現在とよぶべき関係である。《注・図》
時点(a)クリちゃん→現在→咲いている花 ↓ 時の進行
↗ 過去 過去の時点への話し手の移行
時点(b)クリちゃん→現在→散っている花 ↓ 時の進行
 いま時点(b)に、現実の花の散っているありかたとそれをながめている話し手が存在するとする。この両者の関係は、誰でも現在として扱う。ところで話し手は過去のある時点(a)で、この花がうつくしく咲いていたであろうことを想像できるが、この想像の世界をつくりだすとき、話し手の目の前にはその花の咲いているありさまがうかんできて、観念的に分裂して想像の世界の中にいる話し手は、その花に対してやはり現在とよばれる関係をもつことになるのである。細江氏はこの関係で話し手が「花が咲いていまし」と表現し、現在形を使うのを、直観直叙であると説明した。この説明自体は正しいが、この直観直叙の関係こそ現在とよばれる関係なのだということを理解しなかったのである。たしかに、花は現実の話し手に直接与えられている対象ではない。現実の話し手との関係では現在とはいえない。しかしこのことは想像の世界の中の話し手との関係が現在でないということを意味しない。これはいわば《現実の現在とよばれる関係と同じものを観念的な世界に設定しうつしかえた》ことを意味しているからである。現在形を使うことは当然なのである。この話し手は現実の時点(b)にもどって、さきの対象についての表現が過去の時点に関してのものであることを「た」で示す。
● 時点(a) 《花が咲いてい》(まし) ↑過去 ↑移って行く ↓もどってくる
● 時点(b) 《      》(  )(た)
 未来を扱うときも同じようなかたちで話し手の移行が行われる。
● 時点(b) 《      》(   )(う)   
↓未来 ↓移って行く  ↑もどってくる● 時点(c) 《花が咲いてい》(ましょ)
 時点(c)を未来とすれば、その未来における現在の関係を観念的な世界に設定して「花が咲いていましょ」と表現し、また現実の時点(b)にもどって、さきの対象についての表現が未来の時点に関してのものであることを「う」で示す。これが、確実な未来になると、「明日咲きます」というかたちで現在形を用いるが、これも当然のことで少しもおかしくない。「明日」と表現する前の現実の時点(b)に居るが、この表現と一緒に未来の世界に移って行く。そこで対象のありかたを「咲きます」と表現する。
● 時点(b) 《    》(■)
↓未来  ↓移って行く  ↑もどってくる
● 時点(c) 《明日咲き》(ます)
 このあとで、話し手はまた現実にもどってくるが、すでに「明日」という表現で未来へ移行することを理解させてあるので、もどってきてからの表現を省略する。場合によっては、
● 明日咲きますか? 咲きます。
 のように、未来の時点での端的な表現ですませることもある。話し手の移行は表現の上に示されていないが、移行がないわけではない。
● むこうから犬が来ますね。 来ます。
 これは現実の現在の関係を表現している。かたちの上では「咲きます」と同じに見えるが、そのうしろにある認識構造はちがう。未来の時点での現在の関係のように、話し手の移行をふくんでいないのである。
 一人称の場合は、まず話し手自身が観念的に二重化して、自分自身を対象として話し手の向こうがわに置き、それから時の進行に従って未来へ移ったり逆行して過去に移ったりして、それぞれの時点に話し手を位置づける。
● 私は(子どものときから年寄りになるまで)苦労する運命にある。
 「から」から「まで」は対象の範囲についての話し手の意識だが、この範囲を設定すること自体、話し手の観念的な動きにおいて行われている。対象のありかたが時と共に変化していくのを追って、話し手も時点(a)から(b)を通って(c)へと移って行く。
《注・図》                       ↓時の進行
(a) クリちゃん→現在→乳児のクリちゃん       ↓時の進行
 ↑移って行く                     ↓時の進行
(b) クリちゃん→現在→(←分裂する)現実のクリちゃん ↓時の進行

 ↓移って行く                      ↓時の進行
(c) クリちゃん→現在→老人のクリちゃん       ↓時の進行

                           ↓時の進行
 《この運動の中で、現在とよばれる関係がいくつでも設定できる》ということがわかれば、「歴史的現在」のように、現在形の表現が次々とくりかえされることについての疑問も消滅する。
 ニュース映画の観客は、画面の示す対象について《つねに》現在の関係にある。現在の関係が連続して存在する。キャメラマンは、事件のありかたを否応なしに追いかけるように、観客に強制する。対象の時間的な経過と観賞の時間的経過とが一致している。これに対して、言語のようにそれ自体時間的な経過を持たない表現の形式では、《映画とは逆に、読み手の方が視線を動かしていかなければならない》。言語に示された対象の時間的経過と、観賞の時間的経過とは必ずしも一致しない。これは言語の長所でもあって、「永遠」のような対象を瞬時にとらえて表現できる。けれども、対象の時間的経過と表現の順序とが近似的に一致していることや、たとえ瞬時であろうと、そこに読み手の観念的な運動がひそんでいることを見のがすと、言語の「認識構造」や「歴史的現在」が理解できなくなる。
【感想】
 過去現在未来という時間的経過の中で、「現在」は、最も「とらえにくい」事象ではないだろうか。なぜなら「現在」が現在であるのはほんの一瞬であり、すぐに「過去」になってしまうからである。「死ぬ」という行為を考えてみても、息を引き取るまでは生きており、引き取った時には「死んだ」と過去形になる。だとすれば、「死ぬ」という事実はあるものの、いつの時点を「死ぬ」と表現すればよいかわからなくなる。「彼はまもなく死ぬ」といっても、現在はまだ生きているのだから「未来」を表現していることになる。 著者は、《過去から現在への対象の変化は、現実そのものの持つ動きである。これを、言語は、話し手自身の観念的な動きによって表現する》。《現実の現在とよばれる関係と同じものを観念的な世界に設定しうつしかえ》る、《この運動の中で、現在とよばれる関係がいくつでも設定できる》ということを強調して説明しているが、要するに、話し手と対象が「現在とよばれる関係」で結ばれる時、直観直叙の「現在形」という表現が成立するということではないだろうか。しかし「現在とよばれる関係」とはどのようなものなのか、「過去とよばれる関係」「未来とよばれる関係」に比べて、今一つ判然としなかった。(2018.2.18)